孤立に追い込むマウンティング

 人間は一人では生きていけない。しかし、この命題に抗うかの様に「孤立」のコースを選んで走り出す人が目に付くようになった。特に、高学歴、高地位で定年を迎えた人達に顕著のようだ。
  日本の社会風土は、意見を述べないことを未だに美徳と評価する風潮がある。他人からは優しい、良くできた人と評価される人達だ。裏返せば、自立心の弱い人間だ。彼等はとかく他人に合わせて人間関係の諸問題を解決しようとする。しかし、ここからは教訓は生まれない。感動も生まれない。もちろん、人間の成長など望むべきもない。しかし、日本の組織ではまだいわゆる出世コースに乗る部類の人達だ。
  ところが、定年後は長寿社会、組織からの評価はゼロの人生が始まる。そこで、自立心の涵養が弱い人ほど「マウンティング根性」が頭をもたげるようだ。知識をひけらかし、解説・評論を始める。ところが、「この件については自分はこう思う。その理由はこうだ」という構造が欠落しているのだ。つまり、自分の意見が全くないのだ。その様な話を聞きたい人は誰もいない。聞きたいのはその人の意見、考え方なのだ。これは自分の意見を述べているようだが、自立心の弱さを隠蔽する常套手段に過ぎない。
  しかし、定年後はマウンティングは通用しない。待ち構えているのは「孤立」の二文字だ。これは、不治の病より怖い。そして、悲しいことは「孤立」のコースを走り出していることに本人が全く気付かないことだ。この様な輩がやたら増えていないだろうか。
  そこで、「聴く」技術を磨くコースお勧めしたい。人は自分の話を聴いて欲しいと渇望しているからだ。「和して同ぜず」。「個にして弧ならず」。私は、この様な言葉がとても好きだ。が、これは自らの弱さとの格闘である。
  批判の声が存在しない分野に建設的な発展はあり得ない。ところが、「批判」ではなく、「否定」を多様、マウンティング根性が丸出しの△△△教授なるものがテレビで目立つ様になった。   

                                                                               以 上