勝利主義が覆い隠す部活の弊害
「学校の多忙・子どもの部活動を問い直す」と題したシンポジウムに参加した。驚いたのは、子ども達が部活を通じ教育の主体ではなく客体扱いされている実態だ。指導者の快感のためにダシにされている感さえ抱いた。その結果、諸々の弊害が出ているのだ。
部活はとかく命令強制、集団主義が特徴的である。そこは従順な子どもは育つが自立心の醸成とは無縁の世界だ。そして、他人依存型、ミスを恐れる生活スタイルの萌芽が見えるのだ。不透明な時代、しかも長寿社会。これでは背筋を伸ばし、前向きに生きる姿勢は生まれない。
また、命令強制、集団主義が幅を利かす世界に体が馴染んだ場合、民主主義の前提が崩壊する危険さえはらむ。これはとても危険なことだ。
指導者の中には、自分の快感と名誉のために練習が好きでたまらない人達が結構いるようだ。そして、その背中を押す保護者、学校。つまり、指導者の都合、保護者の都合、学校の都合が子どもの都合より優先しているのが実態だ。これが、子どもを教育の客体化に貢献する部活の姿だ。ところが、子どもが教育の主体であることを一団となって、破壊していることに気付かないのだ。
その結果、部活は子ども達の自己実現の場所ではある、が諸々の弊害が発祥する温床にもなっているのだ。例えば「苛め」。「ついてこれなければ辞めれば」、という排除の論理。全体主義の訓練でもしているかのような「連帯責任」。指導技術の不足を「体罰」で補う風潮。勝利主義が全てを許容するかのような空気を醸し出しているのだ。
これでは、勝つための指導は出来ても一人一人に合った指導は出来ない。終生使える様な指導は更に出来ない。その様な指導技術を持ち合わせていないと言った方が正しいかも知れない。だとすれば、これは教育ではない。教育とは一人一人が生きる力を身に付けるためのものだからだ。これは、憲法が目指す方向でもあるのだ(13条前段)。
子ども達を取り囲む環境は激変した。思考回路を変えなければならない。もうすでに部活の廃止を含め、根本的な見直しが求められる時期に来ている。見直しの基準は、教育の主体は子どもである、という視点だ。子どもが生きていくために欠かせない強さ、優しさを醸成する視点だ。
私は、スポーツは終生続けたいと思っている、汗をかく快感を知っているからだ。今、テレマークスキー挑戦の真っ最中だ。
以 上