浪岡中生被写体写真、なぜ問題が生じたのか

 全国に名を馳せた「黒石よされ写真コンテスト」。新聞報道によると、「関係機関が(自殺)の原因を究明中で、名前も写真も一切公表されておらず、被写体の人権を充分に配慮しないといけないと考えた」。一方、「遺族は内定時点から、受賞による写真の公開を望んでいた」という。
  市長らは、一体誰の、どんな人権に配慮したのだろうか。「被写体の人権」とあるから、葛西りまさんの人権といえる。では、どんな人権に配慮したのだろうか。考えられるのは、死者の人格権、つまり名誉、肖像、氏名などだ。遺族は内定時点から、受賞による写真の公開を望んでいたという。とすると、これらに配慮する必要性はなかった。
  ではなぜ、会見で市長らが葛西りまさんの「写真が公開されていない」ことを何度も繰り返したのか。また、主催者側が撮影者に黒石市長賞の辞退を要請したのか。自殺原因究明中と写真コンテストを混同した点にあると見ている。前者には加害:被害という対立構造が生ずるが、後者には、対立構造が生じていないのだ。人権の衝突がないところに、人権の衝突が前提の論理を当てはめようとした為に問題が生じたのだ。
  背後に潜んでいるのは、「波風を立てない」ことを美徳とする風土の根深さである。これは、何も黒石市に特化したことではない。だが、一時の静けさ、後の乱れである。そして、人権保障は、多数の論理に馴染まないことを忘れないようにしたい。名言がある。「過去に目を閉ざすものは現在も盲目である」。是非教訓にして欲しいものだ。

                                                                               以 上