小さいことは大きなことの始まり
「自殺の可能性 浪岡中2年女子」事件の報道に接し、私の見解を青森県(市)教育長宛に提出したものに加筆したものを掲載しました。
以下全文
「自殺の可能性 浪岡中2女子」事件。私は、報道から推察し、ラインによる「いじめ」、そして、いじめによる「自殺」と認定しました。
事件の報道に接し、生きるために学習する場所が、精神疾患ないしは生命が脅かされる場所に変わってしまったのか、という印象です。そして、過去から学ぶ弱さを感じるのです。全国津々浦々で発生しているいじめによる自殺。何か教訓に出来なかったものか。ラインによりいじめも想定されていたことです。県内で県内で警鐘を鳴らしていた教育専門家がいたからです。
私は、「西鉄バス乗っ取り事件」(平成12年5月・1名死亡、1名重傷)を契機に講演活動を始めました。この事件の重要なポイントは、両親は子どもと全く向き合おうとしなかったことです。一生懸命やったのは、あらゆる機関に「相談」に行くことでした。最後は、子どもを精神病院に入院させるのでした。講演のタイトルは「孤立する子どもに気付かない親たち〜聴く力は子どもの自立心を育む〜」というものです。内容は「聴く」ことを重視、対話を通じて子どもに寄り添うというものです。2002年に始めた講演は既回数89回を数えます。
私は、本件の報道で注目したのは、「学校側は女子生徒本人や保護者から無料通信アプリLINE(ライン)で悪口を言われた−などと複数回にわたり相談を受けていたが、「子ども同士でよく発生するトラブル」として、いじめと判断していなかった、と報じられていることです。
このレベルの感性では、この手の事件は増えることがあっても減ることはないでしょう。憲法で最も重要な条文である13条前段は次の様に規定しています。「すべて国民は、個人として尊重される」。簡単に言えば、「人はみな同じ。個人はみな違う」と理解しています。つまり、人権は個別具体的に判断する必要があるということです。今回の判断は、一般的普遍的に捉えている節が感じられるのです。また、この捉え方は最も楽な方法なのです。
でも、事実をいじめと判断しようがしまいが、子どもが自殺に追い込まれている心情を想像するのは、そんなに難しいことなのでしょうか。確かに、教科を教え、報告ものを仕上げることが教師の仕事であると認識する者には難しいことかも知れません。しかし、それは、子どもを教育の主体としてではなく、客体として扱う構造です。
人間は一人では生きていけません。だから、孤立はとても辛いのです。しかも、「いじめ」は同情や、慰め、優しい言葉で救済される代物ではありません。「味方になってくれる人」が必要なのです。つまり、一緒に闘ってくれる人が必要なのです。人間は本来弱いものだと思います。ただ、弱さを「隠せる人」と「隠せない人」がいるに過ぎないと思っています。
中学生にして、余りにも少ない出会い。出会いによって人生は如何ほどにも変わります。その体験を無くしてこの世から去るとは悔しい。自殺まで追い込まれる孤立の苦しみは如何ほどであったものでしょう。想像を絶します。
・なぜ、学校で悲惨ないじめが絶えないのか。
加害者側の子ども達は、あらゆる評価に追い込まれているのだと思います。つまり、息苦しいのです。そして、子どもは大人の鏡です。大人も息苦しいのです。
社会の厳しい環境はマウンティング志向に拍車をかけます。そことが、子どもに影響を与えていることは充分に考えられます。そこは、排除の感情がとても繁殖しやすいのです。加えて、集団主義的傾向が席巻する学校の環境です。そこは、一人一人違って当たり前、という風潮がとても育ち難いのです。つまり、排除の感情が繁殖しやすい環境なのです。
・なぜ、いじめによる自殺を防げないのか。
被害者の子どもは、親、学校にサインを送っていた様です。しかし、人権に関する感性が弱いのです。小さいことは大きなことの始まりです。これは、教師の能力が低下しているというより、子ども達を取り巻く環境が激変しているのです。つまり、身に付けている物差しが合わなくなっているのです。加えて、多数派にいるとなかなか人権意識を醸成し難いのです。孤立に追い込まれる恐怖を想像できないのかもしれません。
大事なことは、命の大切さを「訴え」ることではありません。「一生懸命に命の大切さを訴えてきました」とした場合。「訴え」は一方通行です。そして、一生懸命「訴え」を強化すればするほど「訴え」の取り組みそのものに重点を置きがちになります。その為か、いじめによる自殺、学校経営責任者が責任を取ったという話を聞くことがありません。
また、孤立感を感じている子どもが5割以上とも言われる状況下で「訴え」は絵空事にしか聞こえないことでしょう。子どもの環境が激変しているからです。通信機器の発達。家族構成。建物構造。そして、学校も保護者も「あ〜しなさい。こ〜しなさい」の連呼。子どもが居場所を失い、自己肯定感が持てないのです。つまり、訴えを聞くより自分の不安で一杯なのです。
その反面、とても重要な子どもと向き合うという視点が見失いがちになると思うのです。これでは、子ども達から教訓が得られることは難しいでしょう。残るのは「一所懸命」やったという事実のみです。教育現場に無力感が漂うのは当たり前の話です。
・提言
いじめは法の整備のみでは防げないことが明らかです。子どもに寄り添う教育が叫ばれるのはその為です。子どもの話をしっかり「聴く」。その効果、威力を早く認識し、実践することです。これは、子ども権利条約にも沿うことです。
「子どもは受け入れて貰ったと感じることで初めて優しい気持ちや生きる力が生まれます。」このことを肌で感じる様になれば、教師、親御さんの大きな自信になるのではないでしょうか。ここは、教師に教える立場から教わる立場への転換が求められます。教師にとって、最も苦手な分野かも知れません。しかも、受験学力では身に付かないものです。ここは、遊び心がとても力を発揮するところだと思います。
私は教育の専門家ではありません。ましてや教職の経験もありません。だからこそ、教育現場を外から見える部分があるかも知れません。
事件の背景に類似した子ども環境は蔓延しています。自殺予備軍が何処にいてもおかしくありません。しかし、資源の乏しい我が国において、人材育成には国の命運がかかっています。それは、教育の力に待つところが大です。どうか、子ども達の健全な育成のため、より一層尽力下さるようお願い致します。
以 上