国民はなぜ怒りを表さないのか
私達は、政治が大津波の様に憲法を乗り越える光景を見た。立憲主義を放棄する自民党憲法改正草案も見た。でも、内閣支持率は下がらない。とても不思議な国だ。
「確かに日本は、戦後表向きは大きく変わった様に見える。しかし、今でも積極的に一歩前へ踏み出して、これはおかしいと言おうとしない気質があります。日本には、ブレーキをかけるメカニズムが欠けているのではないかと思います。それは悲劇的な欠点です」(2001年8月15日NHKテレビ)。これは、戦後日本に滞在していたアメリカの著名な方が語ったものだ。
それから15年、悲劇的欠点は是正されたのだろうか。同調圧力を強め、異なる意見や立場に不寛容になる一方の日本社会。目の前の事象について賛成か反対だけ、「なぜなら」を見失ってしまった様な日本社会。そして、横行する「付度」。指摘された悲劇的欠点は一段と深刻さを増している。
せこい桝添。姑息な安倍。リーダーに相応しくないのは両者共通。しかし、政治に不安を抱き、怖いのは間違いなく後者である。改憲勢力3分の2を目指す安倍首相、参院選公示後は憲法改正には一言も触れようとしない。国民もまた何事も無かった様に静かだ。しかし、選挙の勝利後は全権が委ねられたとばかり、憲法改正を声高らかに叫ぶことだろう。民意の誤用は民主主義破壊の手段に使われたことは、ドイツ・ナチスに学んだばかりだ。これまさに時代の危機と言えよう。
国の形が一変するかも知れない今夏の参院選。明治維新、太平洋戦争敗戦、それにも匹敵する。しかし、国民の自由な意思で選択できる点で後者とは明らかに異なる。日本の未来を占う歴史的瞬間の鍵を握るのは、主権者が一言「これはおかしい」、と言えるかどうかにある。
以 上