教育現場の危機
子どもが自殺しなかったら、闇に葬られていた広島・中3事件。ずさんな実態に驚愕する。が、その背景は構造的かつ深刻だ。
「教育を受ける権利」は、憲法が保障する子ども達の権利である。この命題が、学校という職場から抜け落ちてしまっているのだ。学校は、人権の大切さを教え、主権者を育成する場所でもある。憲法が保障する人権を侵害することがあってはならない。
教科は教えられても、子どもに寄り添えない教師及び学校の体質が浮き彫りになった本件。「子どもは教育の客体ではなく主体である」。子どもの権利条約を批准した日本、この当たり前のことが出来ないのだ。これは、学校教育の放棄に等しい。
では、なぜこの当たり前のことが出来ないのか。まず考えられるのは、子どもを教育の客体として扱ってきた伝統的な教育風土がある。加えて、子どもを取り囲む環境の急速な変化だ。その変化に対応した「教える技術」が未熟な為、子どもを教育の客体と扱おうとする姿勢が逆に強まっているのだ。命令・強制が強まり、体罰が後を絶たないのはその証である。そして、拍車をかけるのが反知性的アベ政権の教育介入だ。同調圧力が強まり、学校現場がヒラメの養殖場化していることが考えられるのだ。
この様な環境から教師の自立心が育つのは至難の業だ。同調圧力に怯え、萎縮するからだ。よって、子どもに寄り添う力、つまり子どもを教育の主体と扱う技術は磨かれようがない。そして、不幸なことに教員の未熟さを学校という環境が気付かせてくれないのだ。子ども、保護者から学ぶ姿勢の希薄さ。「教える」がいつの間にか「教えてやる」姿勢に変化していることに気付かないのだ。つまり、学校は元来、人権意識が育ち難い環境なのだ。そして、それがとても楽なのだ。
だとすれば、隠蔽体質の色彩が強い学校組織、過去に闇に葬られていたケースが数多くあったと想像するに難くない。
被害者は、将来を嘱望される子ども達である。これは社会の損失である。その損失を誰が負担するのか。
以 上