民主主義の劣化は民衆を幸福にしない
全体主義を彷彿させる様な記事が、マガジン9(http://www.magazine9.jp)・「柴田鉄治のメディア時評」(平成28年9月24日)に載っていた。次の様な内容だ。
高市発言に同調する市民運動のような形の「意見広告」も登場
高市発言に歩調を合わせた様な奇怪な動きも広がっている。昨年11月、産経新聞、読売新聞に1ページ大のカラー意見広告が載り、「私達は、違法な報道を見逃しません」という大見出しで、TBS「NEWS23」のメインキャスター岸井成格氏を名指しで攻撃する事例があったことは前々回にも記した。
それに応じたかの様に、TBSが石井氏と星浩・朝日新聞編集委員との交代を発表し、「例え交代時期が来ていたにせよ、後退を先送りするくらいの意地を見せて欲しかった」と私をはじめ多くの人達を嘆かせたが、そこへまたまた、2月13日の読売新聞に「意見広告の第2弾」が載ったのだ。
広告主は前と同じ「放送法遵守を求める視聴者の会」で、呼びかけ人の他に今度は「賛同者一覧」表までついている。カラーの大目玉の写真と「視聴者の目は、ごまかせない」という大見出しが躍っているところも「放送法第4条を守れ」と言っているところも前と同じである。
読売新聞の全国版に1ページ大のカラー広告を載せる巨額の費用を誰が出しているのか、という疑問が2回目を見て一層高まったこともあるが、それより「市民運動の形で政府の主張に同調し、『政府を批判する報道を批判する』組織的な動きが出て来たこと」に、子ども時代に戦前・戦中を体験した私は、ある種の危機感を抱いたのである。
戦前、政府に批判的な新聞を市民と政府が一体になった形(不買運動委の様な)で圧力をかけ、ついには全ての新聞が政府に同調して「政府を批判する人は非国民だ」と糾弾する様な社会を生み出してしまった歴史があるからだ。
特に今回、放送法第4条の政治的公平とは「政府に批判的な意見も報道しなさいよ」という倫理的な規範だというのが学会の通説なのに、それを政府が法的規範として批判封じの圧力に利用しようとしているとき、それに同調するかの様な市民運動の登場だけに、いっそう心配になるわけだ。私の杞憂であればいいのだが・・・。
記事を読んで全体主義の前兆がここまで進行しているのか、と愕然とした。憲法改正までは待てない。まず憲法改正案を試走、民衆の反応を見ようということだろうか。それとも同調圧力に弱く、付和雷同型の国民気質を先読み、金の力で国民を取り込もうという発想であろうか。自分たちが憲法改正に先導的役割を果たそうという意気込みがとても良く伝わってくる。同時に時代の危機が刻々と迫って来ていることを教えてくれる。
そこで、既述の行動に関連する自民党憲法改正草案をおさらいしておこう。「公共の福祉」という文言が「公益及び公の秩序」へ変わっている(草案12条・13条・21条2項・29条2項)。一見、言葉は似ている様に見えるが、意味は正反対である。公共の福祉に反しないとは、他の国民の権利を侵害しないということだが、「公益及び公の秩序」に反しない限りとなると、国家側で決めた「公益」実現に有利な権利が基本的人権、「公益」の実現を妨害するものは基本的人権として尊重する必要がない、という意味に変わる。これは、民主主義制度を根底から覆す発想である。同制度は、価値観の多様性が前提で成り立つ制度だからだ。
東奥日報新聞(平成28年2月26日朝刊)「二・二六事件から80年」と題して。作家・森まゆみさんは次の様に述べている。
60年以上生きてきて、今が一番怖い。「戦前」なのかも知れない。事件前後の時代、郡部が着々と力を付けているのに、民衆は恐ろしく鈍感だった。気付いた時には、戦時体制が完成してしまっていた。当時と今の状況はそっくりだと思う。自分の頭で考える力を付けて欲しい。
記事を読んで確かに当時と今の状況は似ていると思う。しかし、現在の民衆は「鈍感」ではない。空気を読むのに長け、空気を作ることをしないだけのことだ。いわゆる利己主義である。何故そうなってしまったのか。主因に自信の喪失が考えられる。受験戦争、労働環境の劣化により民衆は疲弊、考える力を奪われてしまったのだ。その結果、行動基準は善悪より損得になってしまった。これは、生き方としては最も「楽」な生き方だ。ところが、これが子ども達に深刻な影響を及ぼすことになる。空気を読んで行動する子ども達が蔓延しているのだ。
そして、怖いのはこれが個人の生き方に収まっていないことだ。民主主義が栄える土壌を加速的に破壊していくのだ。民主主義制度は国民が権力を監視し、批判し、改善を要求する事が出来るから進歩するのである。
振り返れば、民主主義が栄える土壌の破壊は昭和27年、28年頃から始まっていた。文部省(当時)が社会科教科書として作成した「新しい憲法の話」「民主主義上・下」というタイトルの小冊子をそれぞれ1952年(昭和27年)、1953年(昭和28年)まで使用されていたのだ。(「新しい憲法の話・民主主義」企画・編集委員会)。権力側は主権者が「考える」ことを恐れ、民主主義が栄えることを良しとしなかった、と想像に難くない。
しかし、社会生活の実益に「自由」「平等」は欠かせない。その為には、民主主義を栄えさせねばならないのだ。その為には、一人一人が「考え」「行動」することが前提である。「主権者を舐めたらアカン」。中、高年者よこれが出来ている限り老いは来ない。若者よ、自信を持て!!。小さいことで良い。その積み重ねが人生を支える自信になる。
「人間は考える葦である」※(注)「自分が体験した事しか理解出来ないのであれば、それは動物と同じ」。後世の人達の検証に耐えられる様生きたいと思う。その為には、権力に対する猜疑心を研ぎ澄まし、知らない内に立憲主義・民主主義の破壊に加担していた、ということにならない様にしたい。
※(注)
「考える葦」とは、人間の例え。人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦みたいなものだが、それは考えるという能力を持った存在だということ。十七世紀の哲学者、数学者、物理学者であるパスカルの著書『パンセ』にある言葉。
以 上