目を覚ませ
戦後とは、一体何であったのか。「戦後レジーム」からの脱却だ。立憲主義の放棄を目指す憲法改正。政権与党の報道機関に対する目に余る干渉。そして、解釈改憲の断行。国民が想定しなかったことが次々と続く。もう目を覚まさないと「だまされた」では遅い。
「自民党憲法改正草案」を読んで感じたのは「怖い」だ。アベ政治の暴走レベルの話ではない。一言で言えば、現憲法に比べ時計の針が逆回りになっているのだ。国家権力を縛るはずの法が国民を縛る法に180度転換を図っているのだ。つまり、立憲主義を放棄、国家先導主義の導入だ。でも、ピンと来ないかも知れない。一例を挙げよう。13条の規定を「全て国民は、人として尊重される」と変えている。なぜ「個人」を「人」に変えたのか。同草案の説明を読んでも何処にも書いていない。動物扱いしなければ人として尊重したことになるとでも言うのであろうか。まだピント来ないかも知れない。なぜか。3つの理由が考えられる。どれも日本人の体質にある。
一つは、想像力の弱さだ。立憲主義を放棄、国家先導主義の導入した後の光景を想像できないのだ。例えば、現政権の改憲構想はとにかく国家が個人の領域に介入し過ぎている。その結果、一人一人が自立性を失い、自分の頭で物事を考えることが出来なくなり、さらには異端を許さない社会を想像できないのだ。
第2に、日本人気質だ。つまり、積極的に一歩前へ踏み出して、これはおかしいと言おうとしない気質だ、封建主義から民主主義への転換。しかし、民主主義に欠かせない「ブレーキ」を欠ける意識が封建主義時代のままなのだ。悲劇的欠陥と指摘される所以だ。立ちはだかる根強い集団主義的意識。集団に守って貰うという意識は労働環境の劣化により一層拍車をかけている様だ。
第3に、国民に潜んでいる「虚栄心・見栄」だ。集団主義的傾向の強まりに比例し、一段を強まっている様だ。例えば、憲法は難しいとは言うが、分からないとは言わない。難しいか否かは学んで初めて感じることだ。
悲しいかな、この段になっても時代の危機を感じない。よって、今夏の国政選挙、一般の主権者の投票基準は安保法案でも、「人間は不完全な存在である」ことが前提に生まれた立憲主義の危機でも、憲法改正でもない。今までとは変わらない「消去法」と予測する。つまり、自民党政治が長かった。そこで、一度民主党にやらせた。しかし、上手くいかなかった。では自民党しかないだろう、という発想だ。
しかし、主権者が思考停止状態を選択した時、そこに「全体主義」の萌芽を感じるのだ。これでは国の未来は暗い。後世の人達の検証に耐えられるのだろうか。
民主主義を民主主義で破壊、国を滅ぼしたドイツ・ナチス。 「アウシュヴィッツ強制収容所」を見学のためポーランドへ行って10年になる。65歳の時だ。そこで見たものは、民主主義の怖さだ。国民が思考停止状態に陥ったときの怖さだ。「歴史を記憶しないものは、再び同じ味を味わざるを得ない」。と収容所4号館入り口に刻まれていた。最も怖いのはアベ政権ではない。国民が「思考停止状態」になったときだ。
以 上