2016年展望
「2016年展望・立憲主義と向き合う年に」。これは1月1日付地元紙社説のタイトルだ。私はもう一つ付け加えたい。「違いを認め合う精神と向き合う年に」。どちらも日本の存亡にかかわる重要テーマだ。
「立憲主義と向き合う年に」。
立憲主義とは、を分かっている国会議員は何人いるのだろうか。主権者にとってはどうだろうか。主権者に誇りを持つためには欠かせない学びのテーマだ。
立憲主義とは
近代以降(フランス革命以降)の憲法には、国家権力から国民の自由を守る為に「権力者の行為を全て憲法に基づかせよ」という考え方が次第に出てきた。この様な考え方を「立憲主義」と呼ぶ。
そもそも立憲主義という考え方がなぜ出てきたのか。
一言で言えば、私達は間違いを犯す生きものであるからだ。権力者も同じ人間。しかも権力者は腐敗するというのが歴史の教訓である。人間の性だろうか。やりたい放題、国民の自由を奪い従わせようとする危険は権力者ほど強い。
ところが、民主主義が暴走してしまうと人権保障は確保できなくなる場合があるというのが歴史の教訓なのだ。ナチス・ヒトラーによって破壊されたワイマール憲法(1919年)はその典型例だ。そこで、その時々の多数意見にも歯止めをかける必要が出てきた。登場したのが、「法の支配」という考え方だ。
法の支配
法の支配とは、権力者の意思ではなく、あらかじめ定められた「法」によって国家統治を行い、権力者を含めた国家機関は全て法に拘束されるとするものだ。
「法の支配」の下では、権力者の意思も、民主的な決定も法に反することは出来ない。
憲法改正は自民党結党(1955年)以来の悲願である。憲法は古くなったとか、国民の総意に基づいて制定された憲法を押しつけられたとか、国民に目くらましをしてきた。そして、ついに安保法制をめぐり解釈改憲を断行したのだ。しかも、今年の参議院選挙の結果次第では、一気に明文改憲に雪崩れ込もうという勢いだ。しかし、違憲状態の国会議員に憲法改正の発議など出来るのだろうか。さらに、憲法解釈の変更により憲法を不安定にした自民党。「憲法改正草案」を公表、立憲主義と決別することを宣言しているのだ。つまり、今、立憲主義の精神から憲法をいじるに最も相応しくない者が権力を嵩に明文改憲をしようとしているのだ。しかも「国民投票法」には最低投票率の規定がない。この様な状況下で改憲を支持する有権者は立憲主義との決別を覚悟の上なのだろうか。それとも憲法を改正すれば閉塞感から解放され、平等な活気ある社会が訪れるという幻想を抱いてのことだろうか。
立憲主義が誕生してからわずか200年足らず。その間、私達は立憲主義の崩壊は国を滅ぼすという歴史の教訓(民主主義によって立憲主義を破壊、国が崩壊したドイツ)を得た。しかし、まだまだ立憲主義に対する認知度は高いとは言い難い。国民の不断の努力によって醸成しなければならない。ところが、戦後70年にして立憲主義と決別しようとする政権と向き合う正念場が来た。それは、今年の参議院選挙である。国の命運がかかる今を生きる者として、後世を生きる人達の為に100年の計を見据え、歴史の検証に耐えられるよう行動したい。
「違いを認め合う精神と向き合う年に」。
一人一人違って当たり前という社会に、一日も早く展開できないものだろうか。「自分は自分で良いんだ」。この生き方こそが人の活力を生み、幸せを感じると考えられるからだ。「みんなと同じなら安心」という気楽な生き方からの脱却だ。そのことを憲法は第13条で「すべての国民は個人として尊重される」と規定したのだと思う。
しかし、同調圧力の強い国民性。自分に自信がないと、人の違いを受け入れることは中々難しい。代わって登場するのが「排外的」対応だ。このことは国対国にも当てはまることだ。「経済のグローバル化」とは聞くが「社会のグローバル化」とは殆ど聞くことがない。
人類誕生して350年。未だに紛争解決の手段に人の命を道具に使う戦争。人類の英知を持ってしても、未だに戦争の呪縛から人類を解き放せないのだ。
※参考文献
・伊藤真の「図解・憲法の仕組みが良く分かる本」(中経出版)。
・自由民主党「日本国憲法改正草案」について。弁護士 伊藤 真
以 上