いじめを苦にした中学生の自殺が後を絶たない
名古屋市で11月1日、中学1年の男子生徒がいじめを苦にして自殺した。“教育現場 鈍感さ露呈 いじめ 存在すら気付かず”新聞11月16日付朝刊の見出しが躍っていた。そして、教育専門家は、「最後はやはり子ども達との信頼だ。教師には敏感に『あれ?』と反応できる感性を磨いて欲しい」と指摘していた。ところが、いじめの核心とも言える見出しが漏れている。「多様性認める精神の脆弱さ露呈」。そして、肝心な感性の磨き方については、一切触れていなかった。いじめ対策で重要な地位を占めるのは、加害者及び傍観者に対する原因療法である。対処療法では同じ事を繰り返すだけだ。そして、教師の資質である。その中でも光を当てたいのは加害者である。子どもは大人の鏡とも言われる。その大人達が子どもの環境を作って来たのだ。
まず、次の文章を読んで欲しい。ここにいじめ根絶が出来ないヒントが潜んでいると考えられるからだ。以下は、地域社会に配布された「学校便り」(△△市立△△△校長)から抜粋したものだ。
「従来、子ども達の教育については、家庭が最も基本的な部分に関しては責任を持って身に付けさせて来ました。しかし、時代の推移と共に価値観の多様化や人間関係の希薄が進み過ぎた所に問題が出て来たと思われます。この状況は決して好ましいことではありません。」
いじめに通底する価値観の同質性を奨励しているのだ。そして、この様な発言を公に晒すことが出来るのは、同様な認識が多数派を占めていることが想像できる。
加害者
共通する集団性。愛情の飢餓。寂しさ。自己愛が強く隣人愛に欠ける。利己主義で利他主義がとれない等々。中でも重視すべきは「寂しさ」「孤立感」だ。今、子ども達を取り囲む環境はとても孤立感に陥りやすい環境だ。家庭では親と。学校では教師と生徒と。外では生徒と。生の声で向き合うことが激減しているのだ。全ては大人達が作った環境だ。
加害者を支える傍観者
これは、価値観の同質性を求められる結果生じる構造だ。「自立心」が脆弱なため一人一人違って当たり前という発想が中々培われないのだ。その結果、ついつい傍観者にまわってしまうのだ。「空気を読む」などは、その典型例だ。
教師の資質
一体教師は何処で、どうやって、敏感に『あれ?』と反応できる感性を磨くのだろうか。言うほど簡単なことではない。勿論、受験学力で身に付くものでもない。私は、「自立心」を鍛えることに尽きると考えている。そこには、感動と教訓が潜んでいる。その繰り返しが想像力を高め人権意識を涵養すると考えるからだ。同じ事は保護者にも言える。教師は生徒から学ぶ。保護者から学ぶ。教師の環境は自らを成長させる宝の宝庫である。「教師は生徒と向き合ってなんぼの世界」。向き合う方向を見失ってはならない。
著者伊藤真氏(伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長・弁護士)が「憲法のことが面白いほどわかる本」に次の様に書いている。「『自分が自分でいいんだ』ということをお互い認め合うことが出来れば、その方が幸せであるということを、憲法13条で示しているのだと思います。つまり、憲法は価値観の多様性を前提に作られているのです。しかも、価値観の同質性を求めると、そこから逸脱した集団や個人を排除しようとする力がどうしても働きます。いじめがなくならないのも当然の結果と言えるかも知れません」
人はみな違うのだから違って当たり前。人の違いを受け入れる。これは「自立心」が培われていなければ中々難しい。
いじめの内容を見てみると、暴行罪、脅迫罪、器物破損罪、強盗罪、傷害罪、名誉毀損罪など刑事犯に該当するものばかりだ。学校は無法地帯化、治外法権化にしてはならない。学校は主権者を育成、社会人としての基礎を鍛えるところである。社会で通用しないことを学校現場で横行する様なことがあってはならない。
以 上