民主主義に適する土壌は既に転用されてしまったか

  「大阪都構想」で破れた大阪市長の記者会見、さばさばした表情に、政策に賭けた気迫は全く感じられなかった。タイミングを見てまた登場しますからその節はよろしく、と言っている様だった。これを許す土壌とは一体どんな土壌なのか。とても疑問に思えた。
  私は、当初から彼には全く興味がなかった。言動が軽すぎるのだ。これは最後まで消え去ることはなかった。それよりも興味があったのは、彼に踊らされる民衆にあった。
  彼の政治活動を「熱狂が終わると屋台が引き上げた祭りの様に、本当に後には何も残らず、唯一残されるのは少なくない人の心の傷」と総括していた小説家がいた。
  私は、さらに加えたいものがある。民衆は彼の様なタイプに踊らされ易いことを教えてくれたことだ。歴史的分岐点に差し掛かった今、この教訓は大きい。日本国憲法の理念である「立憲民主主義」を支える基盤は砂上の楼閣の様に脆い。民衆の殆どは目先の利害で動くか、情緒的判断で動く、ということを教えてくれたのだ。そして、彼等民衆こそが歴史変革の原動力であることを。 

  では、一体大阪市長はどの様なタイプなのか。
  民主主義体制にとっては危険なタイプであることは間違いない。失敗、負けを恐れ、常に自分に対する期待感を推し量らねば行動出来ないひ弱なタイプに映る。だから、志が感じられないのだ。退路を断った様な姿をみせ同情を買い。適当なことを言って都合が悪くなれば撤回。その撤回が都合悪くなれば、また撤回。
  また、「個」の弱い人ほど強がって見せる典型的なタイプでもある。だから、「現状を破壊すれば、理想社会がやってくる」と妄想を振りまき、それも声高く、パフォーマンスをフル回転させ聴衆に訴えるのだ。そして、選挙に勝てば「白紙委任」を得たと言って退ける無知さ。まさに憲法が貫く「法の支配」原理を真っ向から否定、「私を信じてくれ」と叫ぶ姿は「人の支配」そのものである。つまり、政治家に欠かせない立憲主義を理解していないのだ。

  では、なぜ民衆は大阪市長の様なタイプに踊らされるのか
  まず、政治、経済に対する国民の不満が渦巻いている事実がある。次に、「壊す」という言葉に酔いしれる「自立心」の弱い国民性だ。さらに、学校で国民主権、立憲主義をしっかり学んでいないことが挙げられる。
  不満解消の為に、政治経済を担う政権に抗するのではなく、個人のヒーローに頼る、という最も手っ取り早い手法を選ぶのだ。そこは国民の特徴である「自立心」の弱さが如実に現れる場面だ。歴史的分岐点に差し掛かってもなお脱却出来ないでいる「観客民主主義」の現れでもある。
  また、「壊す」を「改善」に置き換え、今より快適な生活がやってくると考えている節がある。それは幻想である。「壊す」ことによって今より窮屈な生活が待っていることは世の常である。大事なことは「壊す」ことではなく、その「中身」である。見逃せないのは、踊らされているのは民衆ばかりではないことだ。日本の土壌は、民主主義体制にとって危険な芽が芽生えやすい土壌にすっかり変わってしまったのだろうか。

  日本国憲法を擁護しようとする側が住民投票から教訓にすべきもの
  日本国憲法の理念である「立憲民主主義」を支える基盤は砂上の楼閣の様に脆いことが分かった。民衆の体質、つまり目先の利害で動くか、情緒的判断で動くのが特徴であるあることも分かった。そして、彼等民衆こそが歴史変革の原動力であることが分かった。
  だとすれば、憲法改悪に抗するには「目先の利害」に合致する、ということを訴え、「情緒的判断」に委ねることだ。その為には、専門家による民衆のメンタル面の分析をさらに進める必要があるだろう。そして、ワンフレーズで訴える手法も考えなければならない。憲法改正国民投票に大きな力を発揮する様な気がするからだ。

                                                                                   以 上