立ち位置を見失ったか
報道機関に対する国家権力の介入に対し果敢に抗すべき職業人がしっかりその役割の基軸を見失ったようだ。以下は、フジテレビの女性リポーターと古賀氏のやりとりの一部をヤフーニュースから抜粋したものだ。
(フ):多様な視聴者がいるテレビ番組で、降板の理由として「官邸の圧力」と訴える必要があったのか。
(フ):先ほど、明日(4月17日)の自民党からの聴取について、「集団リンチの様な状況になることもある」と非常に強い言葉を使って説明され
ていましたが、その真意をもう一度お聞かせ下さい。
(古):要するに、こういう状況の中で、(テレビ局幹部)を呼んで・・・何を聞くんですかね?想像されましたか?
(フ):一つ一つの内容について確認をしたいと・・・
(古):どうして、自民党が確認する必要があるんですか?言ってみて下さいよ。
(フ):先ほど、会見の中でもおっしゃられていた様に、圧力をかける側は圧力だと思っていない前提で、きっと呼んでいるんだと思います。
(フ):一つ申し上げると、古賀さんが自分の主張をテレビ朝日の「報道ステーション」で披露というか・・・番組内で話された。見ている視聴者に
は色んな方がいらっしゃる訳で、古賀さんの立場や主張に全く興味のない方もいると思うんですね。
こんなやりとりを読んで、「国民の知る権利」に奉仕すべき企業の社員とはとても思えなかった。スーパーに買い物に出かけたオバチャンが通りがかりに質問している様な感じさえした。言論に命をかける、等ということは雲の上の話だ。そこで、なぜ憲法が「表現の自由」を保障した(21条)のかをおさらいしてみたい。
個人は様々な事実や意見を知ることによって、初めて政治に参加することが出来る。その為には、自由に情報を受け取ることを国家に干渉されない「知る権利」は、とても重要な権利なのだ。そこで、報道機関の報道は国民の「知る権利」に奉仕するものとして重要な意義を持つことになる。これが、報道の自由が「表現の自由」(憲法21条)の保障に含まれる所以である(博多駅事件決定)。だから、「表現の自由」は民主主義の生命線なのだ。
しかし、一旦侵害された「表現の自由」は民主政の過程で回復できない特徴を持つ。つまり、ガラスの様な脆い権利なのだ。だから、常に敏感に反応することが求められる。
官邸、自民党側がどう思うかではない。対峙する報道機関側がどう思うかである。「干渉」と感じられれば、権力者側の認識は正当性の根拠とはならない。
報道機関が報道機関を叩き、報道機関の記者が古賀さんを叩き、彼等は一体どういう役割を果たしたいのだろうか。
報道機関は暴走車に乗ってはならない。常に信号機の役割を果たすべきである。雪が覆い被さり、特に赤信号の色が見えなくなる様では一般車は危険で走行できない。
以 上