一旦侵害された「表現の自由」は民主政の過程で回復できない
立憲主義破壊を宣言(自民党憲法改正草案)、戦争できる国へ盲進する安倍政権。今、国民は望みもしない歴史的分岐点に追い込まれている。民意よりアメリカ、アメリカ合衆国日本州にでもしたいのだろうか。右翼的な言葉を借りれば「売国奴」に映る。
また、自分が「国民の為」と思って行おうとする行動は憲法に縛られない、という歴代首相には見られなかった特異な考え方の持ち主であることが分かってきた。まさに「法の支配」ならぬ「人の支配」である。
さらに、報道機関に対し、あからさまに言及する政権も見たことがない。憲法が保障する「表現の自由」(憲法21条前段)は民主主義の生命線である。しかし、一旦侵害された「表現の自由」は民主政の過程で回復できないのだ。国民の「知る権利」に奉仕すべき報道機関に対する言及は民主主義の崩壊に直につながる。
こんな世相を背景に孤軍奮闘する古賀さん。「権力による懐柔で、日本のマスコミのスリ寄りや自粛が進み、本当のことが言えなくなっている」と警笛を鳴らす。
以下は、4月4日付ヤフーニュースの抜粋だ。
「菅官房長官が先月30日の会見で『放送法があるので、テレビ局がどの様な対応を取るのかしばらく見守りたい』と発言した。テレビ局に対する『放送免許剥奪』の“脅し”と捉えられてもおかしくない。」
「あれが圧力じゃないなんて、菅官房長官は意味不明です。でも、テレビ局や新聞社があれを圧力と感じなくなってしまっていることの方が深刻です。テレビ局は、昨年末の衆院選で自民党から『公平・公正』を求めるペーパーを渡されても、その事実を放送して抗議することもなかった。逆にテレ朝では、社内の関係者にメールでペーパー遵守を周知徹底していたのですから」
この類の話は、マスコミとの関わりを持って仕事をしている人達には公知の事実であろう。だとすれば、「見て見ぬふりをし」「仕方がない」という「沈黙する善良な市民」となり、「思考停止状態」に陥っているのではないだろうか。仮にそうだとすれば、このくらい危険なことはない。憲法を無視、「人の支配」を徹底、その結果国を滅ぼしたナチス・ドイツ。民主主義をもって民主主義を破壊、600万人ともいわれるユダヤ人を虐殺。また、日本に目を転じれば、アジア・太平洋戦争での死者はアジア諸国で2000万人、日本人300万人とも言われる。私達は「人の支配」の残酷さを歴史で学んだばかりだ。
そんな中、2015年4月5日付け地元紙は「政治アナリスト△△△。権力チェック、マスコミは使命を果たせ」との見出しが躍っていた。「『権力は暴走する』。誰がチェックし抑止力になるのか。第一にその役割を担うのは野党だろう。今の野党にはチェック機能、抑止力を期待するのは無理だろう。ならば、誰がそれに変わる存在になり得るかと言えばマスコミ以外にない。」と述べている。
読んでいて彼等が安倍の暴走を加速させているのではないか、という気がした。発言の内容は、発進力手段を持たない、あるいは弱い人達が言うことと変わりがないからだ。彼等はマスコミとの関わりが濃い仕事をしている人達だ。しかし、マスコミを後方支援したとか、いわんや「権力の暴走」に立ち向かった等という話を聞いたことがない。その一方で、この段になっってなお第三者的発言をする。これでは安倍政権の暴走に加担していると言われても仕方がない。
安倍政権の暴走を止める為、今、国民に求められているのは解説、評論ではない。職業、老若男女問わず、一人一人の等身大の行動なのだ。中でも「政治アナリスト」の存在は強く長く発信出来る場所に身を置いているのだ。解説、評論ばかりか権力の暴走を抑止する役割をも担っているという気概が欲しい。古賀さんの様に膨大な力に果敢に挑む志を持って欲しい、と言いたいが等身大で結構だ。「一人一人の力は微力だが無力ではない」。立憲主義、民主主義が破壊されてからでは手遅れなのだ。
以 上