誇りを失った国民。輝きを失った日本。

なぜ、安倍総理は暴走できるのか。
  過去の教訓に目を閉ざし、戦中、戦前に回帰しようとする安倍内閣。すぐ気色ばみ議論討論の未熟さを露呈する安倍総理。「選ばれた」ときは民意を強調。「選ばれなかった」ときは民意を封殺。民意を自分の都合で使い分ける凡庸さ。沖縄の民意を無視した辺野古への新基地建設等はその典型例だ。国内では「人の支配」で突き進み、中国へは「法の支配」を強調する厚顔無恥。アメリカ追随外交は弱い者が強い者にあこがれる姿に酷似する。でも、コペルニクス的展開を図る安倍政権は支持されているのだ。
  そもそも農耕民族である日本人は余り変革を望まない国民であるはずだ。一体この不思議な光景は何に起因しているのだろうか。
  私は、「法の支配」つまり権力者を含めた国家機関は全て法に拘束される。これを支える「民主主義」と「権力分立」が機能不全に陥っていることが主因だと考えている。

まず、民主主義について考えてみよう。 
  「主権者」教育を怠ってきたことがとても大きいと考えている。民主主義は国民が権力を監視し、批判し、改善を要求することが出来るから進歩する。ところが、敗戦後導入された「民主主義」、主権者教育を昭和27年を境にやめてしまったのだ。見たことも聞いたこともない制度を導入したのだ。教育なくして浸透するはずがない。
  そして、家庭や学校は旧態依然、人と同じ様に生きることのメリットを叩き込んできた。また、「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」と子を育ててきた親。子どもは何が人に迷惑をかける事になるのかは分からない。だから、行動が萎縮し、他人の後ろについて行く体質が生まれる。また、親、教員が強制を強いる際の常套語「素直になりなさい」。これらは民主主義の前提である自立心を阻む大きな要因なのだ。
  つまり、民主主義の前提である「批判精神」が醸成する土壌がとても痩せているのだ。反面、いわゆる「観客民主主義」が育つ豊かな土壌なのだ。だから、「思考停止」状態の有権者が蔓延しても不思議ではない。「観客民主主義」の代表格である「沈黙する善良な市民」。高学歴で経済的にも満たされている人達だ。彼等の関心事は家族の幸せと自らの健康のみ、社会に全く関心を示さない人達が蔓延しているのだ。「個にして弧ならず」。これは奥平安弘さんを悼んで樋口陽一氏が述べたものだ、高齢な人に凜とした人を見かけるのが難しくなった。

経済格差
  さらに拍車をかけるのが経済格差である。人間弱くなればなるほど権力者に靡き、自分を癒やす構造をつくる。「思考停止」状態がさらに進行するという構造だ。

メディアの動向
   権力を監視する役割を担うメディアのトップが、権力者側と仲良く会食、親交を深めているという。これは、判事と検事が仲良く会食している様なものだ。国民のメディアに対する信頼を大きく損なう。

三権分立の一躍を担う裁判所
  「法の支配」をチェックする役割を担う裁判所。権力者側に批判的な判決を書けないヒラメ裁判官が増えているという。これまた、家庭教育、学校教育の成果なのだろうか。
  以上より、「法の支配」を支える「民主主義」、「権力分立」が政治の暴走を止める装置として機能しない構造になっているのだ。

主権者教育
  戦後70年、民主主義とは、みんなで話し合い、決めたことには従う、というレベルで止まっている。いくら話し合い、いくらみんなで決めても従う必要がない場合があるのだ。民主主義はあくまでも手段であって目的ではないからだ。目的は「個人の尊厳」基本的人権の保障である。この程度のレベルを高校社会で教育しないと主権者は育たない。その前提として、「人は皆違うのだから違っていて当たり前」という発想を敷衍しなければならない。
  しかし、権力者はこれからも「主権者」教育を本気でやるとは考えにくい。なぜなら、権力者にとって不都合だからだ。すると国民一人一人が、老若男女、障がい者の有無を問わず、共生社会を目指し、「学習力」を高め発信するしかない。文字通り「主権者」になることだ。民主主義の破壊は「沈黙する善良な市民」をも一気に飲み込んでしまう。これは歴史の教訓である。だから、彼等は一般人に比べ、より一層想像力を高める必要性が高い。
  50代の頃、先輩に「元気でやっているか」と問われ、「何とか食べてます」と答えた。返ってきたのは「それは犬でも食っている」だった。これは忘れることが出来ない。

                                                                                   以 上