子ども達を襲う孤独感
〜子どもの命を守れない親、教師達〜

  文明の発達は最も基本的な人間の営みを奪ってしまったか。親は、子どもの命を守り独り立ちが出来る様に育てる。人間以外の動物は当たり前にやっていることだ。川崎・中1殺人事件、加害者、被害者双方に深刻な構造的問題が潜んでいる様な気がする。
  子どもは大人の鏡である。民主化が成熟しない反動で集団主義的発想が強まり排外主義的傾向を強める大人社会。小学校を卒業したばかりの明るい元気な子どもが「集団」という力で殺される。
  加害者、被害者に共通するキーワードは寂しさから来る「孤独感」である。居場所を失った子ども達。集団を作る。集団に入る。これ全て発祥源は「孤独感」である。「個にして弧ならず」等ということは大人でも殆ど出来ない。子ども達は「個にして弧なる」である。さらに、優しさは勇気の裏返しである、ということは大人でさえ分からない。だから、子どもを孤立させてはならないのだ。
  厳寒の川で泳ぐことを強制、首にナイフという殺害手段。衣服を焼き証拠隠滅を図る行為。孤独感が最頂点に達した瞬間だ。浮かび上がってくるのは最も「弧」に脅えている加害者の姿だ。想像するに、とても気の小さい人間に映る。個性が弱く、見栄が強く、虚勢で「弧」を覆い隠していたようだ。しかし、その様なタイプの子どもは何時の時代でもいた。ところが、子ども達の環境は激変した。家族構成の変化、建物構造の変化、通信機器の発達等、子ども達はとても「孤独」に陥りやすい環境に晒されているのだ。
  「何も知らなかった」。この手の事件があればよく聞くセリフだ。では、知ろうとしたのだろうか。半端でない顔の痣。これを見た親が何かを知ろうと行動したのだろか。島から転校、学校へ来ない。学校はこの子どもに対して何かを知ろうと行動したのだろうか。双方とも「思考停止」状態に陥っていなかったか。そこには、「想像力」の乏しさが浮かび上がる。そして、「合わせスタイル」で生きている人達に共通する「自立心」の欠如である。つまり、自分で考え、判断し、決断し、そして行動する。その結果について責任を取る。この構造が家庭、学校から消え去ってしまった様だ。
  「子どもは受け入れて貰ったと感じることで、初めて優しい気持ちや生きる力が生まれる」。聞くことを重視、対話を通じて子どもに寄り添う。これは、子どもの「自立心」を育む土壌である。人間の基本的な営みを復元する必要性をこの事件は叫んでいる。

以 上