「学力テスト」が醸し出す風景

  子ども達の教科の習熟度を確認するために始まった「学力テスト」。本来の機能から悦脱、新たな軌道をを走り出している様だ。それも、「強制」ではなく、「任意」「黙認」という手法を使って進行しているのだ。
  以下は、「子どもと『学力』考えるシンポジウム」、学力日本一秋田の教育現状報告の一部である。聞いて愕然とした。

学校視察者の増加
  「学力日本一秋田への学校視察者の増加を観光に活かし宿泊してもらおう。」経済活性化には事を選ばない自己中心主義。そこには、子どもに対する視点が完全に欠落。
 
メディアの姿勢

  「管理者側の声を吸い上げるが、現場の教職員の『ナマの声』を取り上げないメディア」。民主主義の生命線である「現論の自由」。現政権を批判することを自粛する空気が地方のメディアまで支配しつつあるということだろうか。国民の知る権利に奉仕すべきメディアの衰退がとても心配だ。民主主義の崩壊はまず、「言論統制」から始まるからだ。
 
学力テスト対策

  「過去問を使っての学力テスト対策」。良い結果を得たいという願望が「学力テスト」の趣旨に優先してしまう。そこに教育の底の浅さを見る想いだ。これは子ども達の学習習熟度を確認し、それを教訓に教える技術を高めようとする「学力テスト」の趣旨に明らかに違背する。
 
公表・報奨金

  さらに、「結果の公表」「平均点以上の校長名を公表」「良い結果に報奨金を出す」自治体が現れているというのだ。全ては競争を煽るものばかり。

背景にあるものは
  そもそも学力競争は「教育」に馴染まない。すぐに成果が出るものは、すぐに使いものにならない。これは先人の教訓である。
  子どもは教育の客体ではない。主体である。これは「子ども権利条約」の命題である。ところが、真逆の方向へ走り出した「学力のテスト」の実態。背景にあるのは、教育に対する無関心さと自己中心主義に縛られる保護者、大人達の存在だ。

なぜ、子ども達は学校で学ぶのか
  子ども達が学校で学ぶのは、学校の為でも、校長の為でもない。いわんや国の為でもない。「自分らしい生き方をしたい」為に学んでいる。しかも、時代は受験学力では追いつかなくなった。「考える力」、つまり問題提起をし、解決する能力を要請しているのだ。保護者の関心事がテストの点数のみでは教育の衰退、延いては社会の活力衰退は避けられない。

被害者は子ども
  被害者は、不確かな時代、しかも長寿社会を生きていかねばならない子ども達だ。「学力テスト」に伴う不安、喪失感は更なる「自己否定感」を醸成することになろう。これが社会の将来の発展に大きな損失を与えることになるのだ。

なぜ、趣旨に反してまで実施するのか
  なぜ「学力テスト」をその趣旨に反してまで実施するのか。子ども達の学ぶ意欲、教員の「教育」の喜びを奪ってまで実施する意図は何か。後景は五感を研ぎ澄ませねば見えない。私には、憲法9条改正後の準備に映る。軍事力保持の際の兵員の確保は重要な課題だ。その際「考える力」が培われた人間は不要なのだ。
  国の命運を握る子ども教育。「学力テスト」が醸し出す風景は、私には「教育」の末期症状の前景に映る。

以 上