油 川 物 語これ本当の話である。

油川駅とすぐそばの十三森熊野宮(熊野神社)
 津軽線は、昭和14年(1939年)から施工されたのですが戦争により線路は外され、正式開通が昭和26年です。油川駅の上を飛行機が飛ぶということで駅は低く平らに建てられました。こちらをクリックすると平成19年2月17日の油川駅が見られます。
 油川中学校の土地は昭和7年から昭和20年まで旧青森飛行場の一部でした。それ以前は共同墓地でした。
 飛行場の設置にあたっては、様々なことがあった。今の油川中学校通りは各家々の屋敷や畑を強制的に買収して作ったものである。また、油川駅前の通りは同様であったがその後開通した昭和26年に整備されたが、勿論買いしめたのである。
 ちなみに、十三森熊野宮(熊野神社)の林の木を数十本切ってしまった。その中に直径1m以上の大木が数多くあった。神社の土地は今よりも広かった。木の種類は、タモ、松がほとんどであった。切り株が数多残されていた。戦時中松からの油をとった(松根油<しょうこんゆ>)ためもあり、境内は更地状態になった。神社奥の院は参道(国道からの細い道)から境内に入ると鳥居の奥にあった。しかし、奥の院の上を飛行機が飛ぶのは不敬にあたるとして、それを北に移動して現在地にある。だから、境内に入ってからの参道が曲がっているのである。※実は、油川駅は奥羽本線の駅になる(場所は不明)予定であったが、油川住民は反対した。そのため新城駅ができた。その後、油川を活性化するために、油川村長、油川町長はいろんな方策を用いて、油川の繁栄を維持発展させるために尽力した。

野 木 和 と 油 川 城 跡

野木和は遺跡群として有名である。風光明媚な所としても名が知られている。江戸時代に、景色の美しさを詩に記した人がいる。桜をたくさん初めて植えたのは、大正時代から昭和時代の初期にかけてである。その後、野木和公園は、青森市に寄付されている。
 野木和の大沼は、明治の末、土手で仕切って造られたものである。現在の土手の位置に土手が築かれ水の流れを止めることで沼にしたものである。その時造られた水門は木製であった。要之助という大工が造った。その後、下堤を造るため低い土手を造った。その水門はコンクリートである。そして、昭和に入り飛行場を造ることになり田圃が少なくなったことから、下堤の土手は壊された。野木和大沼では、鯉の養殖が行われていたが、太平洋戦争時代はほったらかしであった。
 野木和から館の城(油川城)の間や城の周囲は殆どが湿地帯【大萢(おやぢ)】であった。野木和大沼一帯は土手を築く前は、小さなため池が5つあったという。農業用水として使われていた。湿地でないところは、城の山手(西側くらいのものであった。)野木和という地名だが、野際という記載もある。地元の人たちは、大沼が造られる前から「のげ(野外)」と呼んでいた。野外とは原野にならない湿地帯を言ったらしい。または、「のぎわ」を縮めて言っていたという説もある。
 通称八森山と呼ばれているところは「橋かけ山」(仮称)の西(山手)田畑を隔てた小高い山である。その山は城跡で鎌倉時代に山城を建てた。油川城は中世の館として建てられた。「橋かけ山」に橋を架けた。【こちらをクリックするとその写真が見られます。】今でも「橋かけ山」は緩やかな坂でスキーを楽しむことができる。津軽為信に攻められる前には、油川城の4郭【こちらをクリックすると油川城の地図が見られます】からその「橋かけ山」(今そこを通過すると羽白開発の所に出る。)に橋が架けられていた。現野木和公園の地図はここをクリックすると見ることができます。


県内初めての自動車試験を路上以外で行ったのは油川(青森県運転免許センター運転免許課提供)
昭和10年  東津軽郡油川町原野を借り受けて実地試験を開始(県内初めて行わ
      れる。それ以前は路上などで行われていた。)

昭和14年  414日 油川字羽白野木和58の2に試験場設置
1939年) 名称が3つみられる。
          ・県の自動車試験場
           ・青森運転免許試験場
           ・青森県自動車学校
        ※昭和38年以降も県営の自動車学校としてしばらく運営していた。
昭和38年  10月に新城に移転、業務は4月より開始
平成 6年  12月に三内に移転
        「青森県運転免許センター」として現在に至る。

寒  修  行
 昭和30年代頃までは、浄満寺の和尚さんが寒(かん)になると、除雪しない路地を歩きながらお経を唱えて、檀家一軒一軒の前で立ち止まりお経を唱えていた。すると、家の人は米やお金をお布施として差し上げたものであった。その頃は道路は除雪はしていなかった。道路の真ん中だけを人が歩いていた。国道はバスや馬そりが通っていた。雪が多くなるとバスはたまにしか来なくなることもあった。
 少し前は、寒(かん)になると、おばちゃんが集団で和讃を唱えてやってくる。覚えている家には、覚えている人が玄関から入ってくる。「寒修行です。」とか言う。家の人はお金をお布施として差し上げる。気候が暖かろうが関係なくやってくる。この頃は、老いたためか回ってこなくなった。

パ チ ン コ 店 物 語
油川が初めてかもしれない??
  昭和22年大坂屋(浪岸18番地当たり)でパチンコ店を始めた。子供向けでメタルを1個1円で買いそれを入れると、パチンコ玉が1個出てきた。それを、はじいて遊んだ。釘が多いため下まで落ちるのに時間がかかった。5円分行うと随分遊べた。
  昭和24年ベティというパチンコ屋が開店した。場所は中学校通り(大浜108番地あたり)。そこでは、景品を出していた。それは、ドンキミ、チョコレート、キャラメルなどであった。若者達が集まってやっていた。子供たちは入る隙はなかった。半年ぐらいで閉店した。その後に、ラーメン屋が開店した。
  昭和25年、コモセ(今でいうアーケード付き商店街)のお店屋さんの1店旧国道の大浜158にあったお店が1部を仕切って子供向けパチンコ遊芸場を開店した。子供たちは登校中パチンコをやり、キャラメル、チョコレートなどを景品として貰いカバンに入れて学校に持って行った。当時の先生は、すでに見抜いて「オメダジ、まだやってきたべ。」と言っては、全部没収されてしまうのでした。先生は密かにためていたのである。何か楽しいことを催すときに、学級の子供たちに分配して食べさせた。とられた子供は不満げであった。しかし、懲りずにパチンコをやって景品を持って行っては、先生に没収されるのであった。
  その後、青森旧市内に「ヤッコパチンコ」「マルヨシパチンコ」など大人向けのパチンコ店ができて油川のパチンコ店は消滅した。