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「アナンよ、花は生きているから美しい」
(お釈迦さま)



   「人身得ること難し」(道元禅師) 私たちが生きている地球上には一体何種類の命があるのでしょうか? 多分気が遠くなるような数だと思われます。木や草や魚や鳥や・・・そしてそのなかに私たち人間も生きています。たまには 猫になってのんびりしたいと思うこともありますが(笑)、でもやっぱり人間としてこの世に生まれてきて良かったなと思います。 笑ったり、泣いたり、感動したり・・・人間が大好きです。私共の宗門の高祖道元禅師さまは「人間としてこの世に生を享ける ことは難しいことである」と示されています。だからこの命を感謝し大切にしなければならないというお諭しです。
   人間って不思議ですね。自分が殺されるのは絶対嫌なくせに、さまざまな理屈をこねては人の命を奪います。たとえば・・・ 思えば20世紀は戦争の世紀。国の利益という旗のもとで(それと兵器の進歩もあいまって)、これまで人類が経験したことのない ほどの大勢の・・・1億7,000万人の人間を人間が殺しました。因みに第二次世界大戦では5,000万人の命が奪われ、アジアでは2,000万人 が、日本では310万人が犠牲となりました。世界中のすべての仏教者のいましめ(戒)の第一番は「不殺生戒(ふせっしょうかい)」です。 すなわち「どんな理由があっても、人が人を殺してはならない」ということです。現在、多国籍企業と先進国の新自由主義によるグローバリゼーションによって貴い環境と 多くの人命が犠牲になっています。WHOの1999年世界保健報告によれば、1998年の「豊かな国」 (日本、北アメリカ、全ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド)の戦争による死者は4,000人だったのに対し「貧しい国」 (日本をのぞく全アジア、全南アメリカ、全アフリカ、オーストラリアおよびニュージーランドをのぞくオセアニア)では死者584,000人 という悲しい事実があります。
   「人権」は「自然権」とも言い
「すべての人間が生れながらに持っているとされる権利。近代の自然法論によれば、この権利は国家以前に存し、国家によって人為的 に与えられたものではないから、国家はこれを侵害し得ないとされる(『広辞苑』)」ものです。「人権」の対極にあるのは「国権」です。人間の権利の最も重要なものは「自由に 生きる」権利であることは疑いの余地がありません。それが今でも「国権」によって蹂躙されている事実をしっかり見なければならないと思いますし、「人権」実現のために「国権」があるという崇高な命題を21世紀の世界に実現しなければなりません。
   「狭山事件」は国権至上主義に追従する司法による被差別部落に対する人権蹂躙です。被差別部落の青年という差別と偏見から石川一雄さんを 逮捕し「犯人」に作り上げました。当時の日本人の人権に対する認識の遅れが露呈された事件でした。しかし、今私たちの目前にある重要な問題は、1974年10月31日 の寺尾判決以降、公正な裁判を願う再審請求がことごとく門前払いされ今日に至っているということなんです。「白鳥事件決定」(1976年・最高裁第一小法廷)を無視し「司法のメンツ」のようなつまらない ことがもしも万が一でも公正な裁判を妨げるネックとなっているとしたらそれはとても恐ろしいことですし、70年代の司法の国権化が今の司法体質であるとすれば断じて許されるものではありません。司法は絶対の力をもって裁き人命を奪う ことが可能です。現代の神そのものと言っても過言ではありません。「力あるものは謙虚たるべし」。司法は強大な権利が付与されているからこそ常に謙虚でなければ なりません。司法は本来「国権」から分立しているわけですから人権を守り憲法に従って立法を指弾しなければなりません。
   さて、「殺す」という言葉にはもうひとつ別の意味があります。黙殺という言葉からうかがえるように「存在を無視する」という 意味です。当ページを訪れ最後まで目を通していただいたあなたに感謝を申し上げるとともに、「狭山事件」を他人事としてではなく自分の身におきかえて 考えていただきたいのです。「差別意識」は差別される側の悲劇とともに差別する側の人格をおとしめているという事実・・ほんとうの幸福を願っているあなた自身の生き方にかかわる問題なのです。「この世は私の花を咲かせにきたところ、この世は あなたの花を咲かせにきたところ」。この事件を無視し、石川一雄さんを見殺しにすることなく、公正な再審への道を拓くために認識を深めていただければ 幸いです。21世紀を生きる私たちと、21世紀をこれから生きてゆく私たち人類の子孫のためにも・・・。(文責:彰晃)

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