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事件をつたえる5月4日の産経新聞



   1963年(昭和38年)5月1日、埼玉県の静かな田園都市狭山市で国を揺り動かす大事件が起きました。当時高校1年生の 中田善枝さんが下校途中行方不明となり、その夕刻20万円を要求する脅迫状が届けられたのです。この日はまた善枝さんの 16歳の誕生日でもありました。警察は誘拐事件と断定し、翌2日夜、身代金受け渡し場所に40人の警察官を配備し ますが、目と鼻の先にいた犯人を取り逃がしてしまいます。3日大掛かりな山狩り捜査を開始、4日農道に埋められている 善枝さんの無惨な死体が発見されます。
   昭和38年は東京オリンピックを翌年に控え日本が敗戦国から脱却し先進国に肩を並べようとする高度経済成長期(池田内閣) でした。しかし、日向があれば日影もあり、同年3月には戦後最大の誘拐事件といわれた「吉展ちゃん事件」もおきていました。 対外的なイメージダウンや警察能力に対する不満・・・。狭山での誘拐犯人取り逃がしには国中から批判の声が上がりました。 死体が発見された4日には警察庁長官辞表提出(10日辞任)。遺体が発見されて2日後の5月6日、中田家元作男が謎の自殺 を遂げます。その報告を受けた篠田弘作国家公安委員長は「こんな悪質な犯人はなんとしても
生きたままフンづかまえてやらねば・・」と 歯ぎしりをした(埼玉新聞5/7)ことに、主題は真犯人逮捕ということから世論の攻撃をいかにかわすかということに移項していったことが伺えます。 すなわち「犯人逮捕」はいわば警察のメンツのみならず国家の威信をかけた至上命令となりました。
   埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させますが捜査は難航します。警察は被差別部落の青年に的を絞った特命捜査班を組織して狭山の被差別部落(菅原四丁目)に対する 見込み捜査を開始し、同月23日、石川一雄さん(24歳)を軽微な罪状による、いわゆる「別件」によって逮捕します。当時の被差別部落に対する偏見と差別の実態が、事件を報道した東京新聞の見出しに露出しています。
  「犯罪の温床―善枝さん殺しの背景―」「善枝さんの死体が四丁目に近い麦畑で見つかったとき、狭山の人たちは異口同音に『 犯人はあの区域だ』と断言した」
   「石川一雄が犯人だという確信はあるか?」との記者の質問に、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これ(石川さん)が白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」 と苦渋を滲ませました。この発言は、他に犯人として逮捕すべき人間がいないから石川さんを逮捕したという 消去法的・間に合わせ的逮捕であったことを如実に物語っています。狭山事件は差別という悲しい側面とともに、指紋など決定的な物的証拠のないことや当時の警察の能力など・・極めて難しい面をあわせもっていたこともまた否定できません。
   石川さんが逮捕されたときの新聞の見出しに「表から出して裏から入れた」とあった。 「別件」逮捕をわかりやすくするために、当時の新聞はそういう表現をしたのではないか。別件の小さな盗みで令状を とって、石川さんを逮捕し、二十三日間を利用して、石川さんを自白させようとした。(「部落解放研究第37回全国集会報告書」p.90・庭山英雄)
   6月17日本件(強盗、強姦、殺人、死体遺棄)で再逮捕。石川一雄さんは警察と検察による非合法かつ徹底した暴力的取り調べに執拗に晒されます。「罪を認めなければ一家の稼ぎ手である兄を逮捕するぞ」などといった脅しを受け 「10年で出してやるから・・男の約束だ」という口約束を信じ込まされて、ついには嘘の自白を強要させられます。7月9日浦和地方裁判所に 起訴。1審で石川さんは口約束を信じて犯行を「認め」ます。一審判決は死刑。収監中、石川さんは自分が騙されていたことに気づき、二審冒頭で「お手数をかけて申しわけないが、私は殺っていません。」と真実の叫びを挙げ、犯行を全面否認。以来 当然の事実である「無実」を訴え、司法のありかたをも問い続けます。1974年10月31日 東京高裁は「石川一雄さん無罪」を訴え盛り上がる世論と司法の体面維持のバランスをとるために「無期懲役」の判決を下します(寺尾判決)。弁護団は新証拠をあげて上告、異議申立て、再審請求を提出しますがことごとく 門前払いとなり今に至っています。
   石川一雄さんは1994年12月21日に仮出獄となり、31年7ヶ月ぶりに故郷狭山の土を踏みました。老体と病身に鞭打ちながら獄中の息子の無実を訴え続けたご両親はすでに亡くなっていました。

「冤罪の受刑生活解かれども 故郷に立ちてわれは浦島」
(石川一雄)

  石川一雄さんには決して妥協できない「こだわり」があります・・・それは、「(無実の)見えない手錠」を架けられたままご両親の墓参は出来ないという悲しみの決意です。
  その後、支援者であった早智子さんと結婚しました。今日も夫婦二人三脚で全国を行脚し、冤罪狭山事件を訴え続けておられます。

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