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     承久 3年(1221年)
             小笠原長清、阿波守護となる。
             
承久の変。
     南北朝末 (1386年以前)
             小笠原義長、阿波三好郡に住み、三好氏を称す。
     寛正 6年(1465年)
       2月    三好式部少輔、阿波三郡を支配する。
     文正 元年(1466年)
       6月    三好入道某、東寺領の段銭を押領する。
       
9月    文正の政変、翌年応仁の乱勃発。
     文明 4年(1472年)
       8月    阿波守護細川成之、三好式部に三郡内の犬神を停止させる。
     文明17年(1485年)
       6月    三好之長、京都で徳政一揆の張本となる。
      12月    山城国一揆起こる。
     永正 3年(1506年)
       2月    三好之長、細川澄元の先陣として洛上する。
      10月    三好之長、これ以前に摂津西郡の守護代となる。
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     永正 4年(1507年)
       6月    三好之長、細川澄元を擁し近江甲賀に逃亡する。
             
細川政元暗殺される。
       8月    三好之長、細川澄元を擁して入京、幕政の実権を握る。
     永正 5年(1508年)
       4月    三好之長、細川澄元を擁し再び近江に逃ぐ。
       
6月    足利義稙、周防より入京し将軍に再任さる。
     永正 6年(1509年)
       6月    三好之長、如意岳の挙兵するも失敗、阿波に逃亡。
     永正 8年(1511年)
       6月    三好之長、阿波に於て細川澄元を擁し挙兵するも再び失敗。

       8月    船岡山の合戦、細川澄元党大敗。

     永正16年(1519年)
       5月    三好之長、淡路守護細川尚春を暗殺。
       9月    三好之長、細川澄元を擁し阿波にて挙兵する。
      11月    三好之長、兵庫に上陸し、越水城を包囲。
     永正17年(1520年)
       2月    三好之長、越水城を陥す。
       3月    三好之長、上洛して京都を支配する。
       5月    三好之長、京都等持寺に細川高国と戦って敗れ、刑死。
       6月    細川澄元、阿波で病没。

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     大永 6年(1526年)
             
今川氏親、家法三十三条を駿河・遠江両国に公布。
      10月    三好元長、細川晴元を擁し阿波に挙兵。
      12月    三好勝時・政長父子、堺に上陸する。
     大永 7年(1527年)
       
2月    細川高国ら柳本賢治に桂川で敗戦、近江に逃亡。
       3月    三好元長、細川晴元ら、足利義維を擁し堺に上陸、堺幕府成立する。
     大永 8年(1528年)
       7月    三好元長、山城下五郡守護代となり、京都を支配する。
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     享禄 元年(1528年)       光秀 1歳

             
光秀、生まれる。
     
享録 2年(1529年)       光秀 2歳
       8月    三好元長、柳本賢治らと争い、阿波に帰国する。
     享録 4年(1531年)       光秀 4歳
             
一向一揆越前朝倉氏と戦う。
       2月    細川晴元、細川高国の反攻により三好元長を阿波より召喚する。
       6月    大物崩れ、細川高国、摂津欠郡にて三好元長に敗死。
     享録 5年(1532年)       光秀 5歳
       6月    三好元長、一向一揆に攻められ堺顕本寺に敗死、堺幕府滅
ぶ。
             畠山義堯、一向一揆に敗死。
       8月    山科本願寺、細川晴元軍に焼打さる。

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     天文 2年(1533年)       光秀 6歳
             この頃法華一揆、京都の市政権を掌握する。
       6月    三好長慶、本願寺と細川晴元との講和を仲介する。

     天文 3年(1534年) 信長 1歳 光秀 7歳
       
5月    信長、生まれる。
             父は尾張・勝幡城主・織田信秀、母は正室・土田御前。

      10月    三好長慶、細川晴元の被官となり、摂津守護代・越水城主に任ぜられる。
     天文 5年(1536年) 信長 3歳 光秀 9歳
       7月    三好長慶、摂津欠郡の一向一揆と戦う。
             天文法華の乱。細川晴元、上京を焼打する。
     天文
 6年(1537年) 信長 4歳 光秀10歳 秀吉 1歳
       
2月    秀吉、生まれる。
 
    天文 8年(1539年) 信長 6歳 光秀12歳 秀吉 3歳
       6月    三好長慶、幕府に河内17箇所を要求し容れられず叛乱を起こす。
       8月    三好長慶、細川晴元と和睦し、越水城主となる。
       10月 尼子晴久、播磨に侵入し赤松晴政を破る。
     天文 9年(1540年) 信長 7歳 光秀13歳 秀吉 4歳
      11月    三好長慶、丹波八上城主波多野秀忠の女と結婚。

     天文11年(1542年) 信長 9歳 光秀15歳 秀吉 6歳 家康 1歳 
       
3月    三好長慶ら、河内大平寺で木沢長政を敗死させる。
      
12月    家康、生まれる。
     天文12年(1543年) 信長10歳 光秀16歳 秀吉 7歳 家康 2歳
             
ポルトガル人、種子島に漂着し、鉄砲を日本に伝える。
       
5月 1日 信秀、平手政秀を名代として朝廷へ皇居の築地修理費用として千貫文を献上する。
       8月    三好長慶、和泉で細川氏綱と戦う。
     天文15年(1546年) 義輝11歳 晴元33歳 長慶25歳 久秀37歳
                  信長13歳 光秀19歳 秀吉10歳 家康 5歳
     天文16年(1547年) 義輝12歳 晴元34歳 長慶25歳 久秀38歳
                  信長14歳 光秀20歳 秀吉11歳 家康 6歳
           
  武田晴信、甲斐信濃両国に分国法五十五条を施行。
       
7月    三好長慶の弟三好義賢、摂津舎利寺に遊佐長教と戦って大勝する。
     天文17年(1548年) 義輝13歳 晴元35歳 長慶26歳 久秀39歳
                  信長15歳 光秀21歳 秀吉12歳 家康 7歳
      
       信長、美濃・斉藤道三の娘・濃姫を娶る。
       5月    三好長慶、遊佐長教の女と再婚し、畠山氏と同盟を結ぶ。
      
 8月    三好長慶、叔父三好政長を除かんとして細川晴元に叛く。
     天文18年(1549年) 義輝14歳 晴元36歳 長慶28歳 久秀40歳
                  信長16歳 光秀22歳 秀吉13歳 家康 8歳

             イエズス会士フランシスコ=ザビエル、鹿児島に上陸、キリスト教を伝える。

       
6月    三好長慶の弟十河一存、摂津江口に三好政長を敗死させる。
             細川晴元政権崩壊。

             
将軍足利義輝、細川晴元ら近江へ逃亡。
       
7月    三好長慶、畿内を制覇して入京。
     
 11月 9日 駿河勢を率いる太原崇孚三河安祥城を陥落させ城主の信広(信長の舎兄)を捕える。
             
ついで、尾張に抑留されている松平竹千代と信広を交換する。
      
11月    熱田八ヵ村中に制令を下し「藤原信長」と署名する。
     天文19年(1550年) 義輝15歳 晴元37歳 長慶29歳 久秀41歳
                  信長17歳 光秀23歳 秀吉14歳 家康 9歳
       
7月    三好長慶、将軍足利義輝と洛東で戦う。三好弓介の被官某、
             鉄砲命中し死す。(鉄砲実戦使用の初見)
      12月    ザビエル、入京するも将軍謁見を果せず、空しく山口に帰る。
     天文20年(1551年) 義輝16歳 晴元38歳 長慶30歳 久秀42歳
                  信長18歳 光秀24歳 秀吉15歳

       3月    三好長慶、京都吉祥院城にて進士賢光に刺され負傷。
             
信長、家督となり尾張を支配。
       5月    三好長慶の岳父遊佐長教萱振一族のため暗殺される。

     天文21年(1552年) 義輝17歳 晴元39歳 長慶31歳 久秀43歳
                  信長19歳 光秀25歳 秀吉16歳 家康11歳
      
       織田信秀、病没する。享年41歳。
       1月    三好長慶、足利義輝と和睦し、御供衆となる。
       
3月 9日 信秀(41歳)が流行の悪病にかかり末盛城で没する。
       4月17日 信長、兵800を率いて那古野城を出陣し、中根村・小鳴海を経て赤塚の郷で、
             山口父子1500の兵と数刻に渡り激戦を繰り広げるが勝敗は決せず、
             信長の麾下30騎が討ち死にする。その日に帰城する。

       6月    尼子晴久、出雲、石見、隠岐、因幡、伯耆、備中、備後、
             美作八ヶ国の守護職を与えられる。

       
8月15日 守護代織田彦五郎信友の家宰坂井大膳らが、松葉城の織田伊賀守を人質にとり、
             信長に反旗をひるがえす。

       
8月16日 叔父の織田孫三郎信光(守山城主)の援軍を得て萱津で坂井大膳らを撃破し、
             ついで松葉・深田両城を占領して、守護代家の清州城を孤立させる。

     天文22年(1553年) 義輝18歳 晴元40歳 長慶32歳 久秀44歳
                  信長20歳 光秀26歳 秀吉17歳 家康12歳
   
    1月13日 傅役の平手政秀、信長を諫めて自殺する。
             信長の傅役・平手政秀、諫死する。
       3月    足利義輝・三好長慶の和、破れる。
       
4月下旬  道三と濃尾国境に近い富田の聖徳寺で斉藤道三と会見する。
       4月    信長、富田・聖徳寺で斉藤道三と会見する。
       7月12日 守護の斯波義統、守護代織田彦五郎信友と家宰坂井大膳に殺害される。
       8月    足利義輝の霊山城陥る。足利義輝朽木へ逃亡、三好長慶の京都支配始まる。
             
川中島の戦い。
       9月    松永久秀の弟松永長頼、丹波八木城主内藤国貞の敗死で城主となる。
             三好氏の丹波支配開始。
     天文23年(1554年) 義輝19歳 晴元41歳 長慶33歳 久秀45歳
                  信長21歳 光秀27歳 秀吉18歳 家康13歳
             信長、清洲城を居城とする。
   
    1月    駿河の今川勢、尾張に侵入して村木に砦を築き緒川の水野信
             元を攻める。
             信長、援兵を道三に求める。
       1月20日 道三の武将安藤伊賀守守就が兵千を率いて着陣する。
       1月21日 那古野を出陣し熱田に泊まる。
       1月22日 暴風雨の中を知多半島西岸に渡海して緒川に着陣する。
       1月24日 明け方に出陣し、村木城を陥れる。
       1月25日 那古野に帰城する。
       5月    叔父孫三郎信光と謀り、守護代織田彦五郎信友を殺害、清洲城を居城とする。
       9月    三好長逸、播磨に出陣し、美嚢郡を攻略。
      11月16日 祖父江秀重に俵子船一艘の諸役免許状を与え、「上総守信長」と署名する。
      11月20日 安斎院に寺領等の安堵状を与え、「上総介信長」と署名する。
      11月28日 叔父孫三郎信光、那古野城で家臣の坂井孫八郎に殺害される。宿老の林秀貞に那古野城を
             守らせる。
     
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     弘治 元年(1555年) 義輝20歳 晴元42歳 長慶33歳 久秀46歳
                  信長22歳 光秀28歳 秀吉19歳 家康14歳

       1月    三好長慶、明石に出陣し、播磨東二郡を版図に加える。

       4月    信長、清洲城主となる。
       7月    第二次川中島の戦い。
       7月 6日 叔父孫十郎信次(守山城主)の家臣某、信長の弟喜六郎秀孝を誤って射殺する。
      10月    厳島の戦い。

     弘治 2年(1556年) 義輝21歳 晴元43歳 長慶34歳 久秀47歳
                  信長23歳 光秀29歳 秀吉20歳 家康15歳
      
       斉藤道三、子・義龍と長良川で戦い敗死する。
       4月上旬  尾張守護斯波義銀と三河守護吉良義昭、三河の上野原で会見する。
             信長、義銀に随行する。
       4月19日 舅の斎藤道三、末子に遺言状を与え美濃国を信長に譲る旨を告げる。
       4月20日 斉藤道三、子・義龍と長良川で戦い敗死する。
       6月    守山城主の弟秀俊、家臣の角田新五郎に殺害される。信長、
             逐電中の叔父孫十郎信次を赦免して守山城を与える。
       8月22日 那古野城将林秀貞、信長の弟勘十郎信次の家臣柴田勝家らと信行の擁立を謀り、
             信長の直轄領篠木三郷を横領して信長に背く。
       8月24日 信長、稲生原で林・柴田と戦い撃破する。
       8月25日 生母の嘆願により、弟の信行・林・柴田らを赦免する。
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     永禄 元年(1558年) 義輝23歳 晴元45歳 長慶36歳 久秀49歳
                  信長25歳 光秀31歳 秀吉22歳 家康17歳
       
3月 7日 今川義元の武将松平家次の守る尾張品濃城を攻めるが敗北する。       
       5月    足利義輝、北白川に侵入し、三好長慶の軍と戦う。
       5月    岩倉城主織田伊勢守信安、子の信賢に追放される。ついで信賢、美濃の斎藤義龍と
             結び信長に反旗をひるがえす。
       7月12日 岩倉城主織田信賢を攻めて、犬山城主の織田信清とともに浮野で撃破する。
       9月    木下秀吉、信長の被官となる。
      11月    三好長慶、将軍足利義輝と講和し、京都を明け渡す。

      11月 2日 弟の信行、岩倉城主織田信と結び再度信長に背く。信行の家臣柴田勝家、信行の謀反を
             信長に密告する。信長、病と偽り信行を清州城に誘殺する。

     永禄 2年(1559年) 義輝24歳 晴元46歳 長慶37歳 久秀50歳
                  信長26歳 光秀32歳 秀吉23歳 家康18歳
             
上杉輝虎、信長相次ぎ上洛す。
       
2月    信長、上洛する。
             
将軍・足利義輝への謁見が目的であった。
       
2月 7日 昼ころ帰国の途につき、近江の守山・永源寺の相谷・八風峠・伊勢桑名を経て、
             数日後の寅の刻に清州に帰城した。

       5月    三好長慶、河内に出兵し、8月に高屋城・飯盛城を陥し、畠山高政を河内に帰国させる。

      12月    イエズス会士ガスパル=ヴィレラ、入京して革棚に布教。
     永禄 3年(1560年) 義輝25歳 晴元47歳 長慶38歳 久秀51歳
                  信長27歳 光秀33歳 秀吉24歳 家康19歳
       
5月    信長、田楽狭間で今川義元を討ち取る。
             桶狭間の戦い。
       5月16日 今川義元、兵1万を率いて駿河から三河の岡崎に着城。
       5月18日 尾張沓掛に侵入する。
       5月19日 義元、桶狭間の北方約2キロの田楽狭間に陣取る。昼過ぎ、信長奇襲して義元を討つ。
       5月20日 信長、清州城にて義元以下の首実検を行う。その数3千余という。
  
     6月    三好長慶、再び河内に出陣する。
       6月 2日 美濃に侵入して斎藤義龍と戦う。
      10月    三好長慶、高屋・飯盛両城を陥れ、河内を版図に加える。
      11月    松永久秀、大和を制圧し、三好氏の大和支配始まる。

      12月    出雲尼子晴久没す。

     永禄 4年(1561年) 義輝26歳 晴元48歳 長慶39歳 久秀52歳
                  信長28歳 光秀34歳 秀吉25歳 家康20歳
       
4月    十河一存没す。
       5月    三好長慶、細川晴元を摂津普門寺に幽閉する。
       5月11日 斎藤義龍が病死したことにより、いよいよ美濃侵攻作戦を本格的に着手する。
       5月13日 木曽・長良川を渡り西美濃に侵入し勝村に陣取る。
       5月14日 墨俣砦から出撃した斎藤龍興(義龍の子)の兵と森部で数刻渡り合戦し、撃破する。
             ついで敵の墨俣城を奪い在陣する。
       5月23日 再び龍興の兵と軽海において戦う。
       5月24日 朝、墨俣に戻る。ついで清州に帰城。
       6月    美濃安八郎の平野荘神戸市場に禁制を掲げる。

       7月    六角義賢、畠山高政、連合して三好長慶を挟撃する。

     永禄 5年(1562年) 義輝27歳 晴元49歳 長慶40歳 久秀53歳
                  信長29歳 光秀35歳 秀吉26歳 家康21歳
       
1月    信長、松平元康と清洲同盟を結ぶ。
          
   徳川家康、信長と盟約。
       1月15日 清州城で松平元康と会見し同盟を結ぶ。
       1月16日 信長、宿老林秀貞らを岡崎に遣わして元康に答礼する。
       3月    和泉久米田の戦い、三好義賢敗死、六角義賢、京都を占拠。
       5月    教興寺・葉引野の戦い、六角高山連合軍敗る。

     永禄 6年(1563年) 義輝28歳 晴元50歳 長慶41歳 久秀54歳
                  信長30歳 光秀36歳 秀吉27歳 家康22歳
             
信長、小牧山城を居城とする。
       3月 2日 信長の娘(五徳)と松平元康の嫡子竹千代の婚約が成立。

       6月    ガスパル=ヴィレラ、飯盛城下において三好長慶の家臣73人に洗礼を授く
             (河内キリシタンの発祥)。
       8月    三好長慶の嫡子三好義興病死、十河一存の子義継、三好氏の家督となる。

     永禄 7年(1564年) 義輝29歳       長慶42歳 久秀55歳
                  信長31歳 光秀37歳 秀吉28歳 家康23歳
             
信長、美濃攻略作戦を一転する。西美濃→東美濃。
          
   浅井長政、信長と盟約。
       3月    越後・相模・甲斐の三和成る。
       5月    三好長慶の弟安宅冬康、飯盛城にて誅殺される。
       7月    三好長慶、飯盛城下に於いて病死、猶子三好義継、後嗣となる。
             三好長逸・三好政康・石成友通の三人衆、後見となる。
       8月    美濃の鵜沼・猿啄両城を落城させる。
       9月 9月 上杉輝虎に書状を送り、先月に美濃の井ノ口(稲葉山)城下に攻め入り近辺に砦を築き、
             犬山・金山を落城させ、さらに伊勢にまで出兵したことを報ずる。
      10月28日 正親町天皇、禁裏の御倉職をつとめる立入宗継を尾張に遣わして
             信長に御料所の回復などを命ずる。
      11月 7日 上杉輝虎に使者および書状を送り、信長の子息を輝虎の養子に迎えられることを謝す。
     永禄 8年(1565年) 義輝30歳             久秀56歳
                  信長32歳 光秀38歳 秀吉29歳 家康24歳
     
  5月    松永久秀・三好三人衆ら謀議して将軍足利義輝を暗殺。
       
7月    足利義昭、奈良を脱出し近江に逃れる。
       7月    美濃加治田城の佐藤紀伊守・右近衛門尉父子、丹羽長秀を介して信長に内応する。
       8月    斎藤氏の武将長井隼人正道利が堂洞に付城を築いて
             岸勘解由左衛門・多治見一党に守らせ、加治田城に攻勢かける。
       9月 9日 津田掃部助一安を甲斐の武田信玄に遣わし、養女と信玄の子勝頼との縁組を申し入れる。
       9月28日 信長自ら加治田城の救援のために美濃に出陣し、長井道利の攻撃を排除したのち堂洞城を
             包囲する。

      11月    松永久秀と三人衆の間、決裂し、河内・大和に戦火拡大。

      11月 1日 美濃の斎藤新五郎に平賀など十三ヵ所2184貫文の知行を宛行う。
      11月13日 信長の養女、勝頼に輿入れする。
      12月 5日 前将軍足利義輝の実弟覚慶(奈良興福寺一乗院門跡)の側近細川藤孝に返書して、
             覚慶の帰洛について供奉する旨などを報ず。

     永禄 9年(1566年) 信長33歳 光秀39歳 秀吉30歳 家康25歳
     
  4月11日 朝廷に馬・太刀・銭3千疋(30貫文)を献上する。
       5月    信長の側室・生駒氏、没する。

       
5月13日 側室の生駒氏(信忠らの生母)没する。
       6月    篠原長房、足利義栄を擁して阿波より兵庫に上陸する。
       7月    三人衆、入京して庶政を栽決。

       8月    奈良において、信長が足利を擁立して尾張・三河・美濃・伊勢4ヵ国の兵を率いて
             上洛するとの虚報が流れる。

       8月 8日 未明に大敗して退却する途中、溺死者を多数出す。
       
8月28日 木曽川を渡り河野島に侵入するが斎藤龍興に撃退され、木曽川の岸に布陣する。
     永禄10年(1567年) 信長34歳 光秀40歳 秀吉31歳 家康26歳
       
5月27日 娘五徳、徳川家康の嫡男信康に嫁ぐ。
       9月    美濃三人衆(稲葉良通・氏家卜全・安藤守就)、信長に内応する。
             信長、稲葉山城を陥れ、美濃を平定する。
             信長、稲葉山(井ノ口)を岐阜と改め、岐阜城を居城とする。
      10月    松永久秀、三人衆と奈良に戦って、大仏殿炎上する。
      10月    岐阜城下の楽市場に制札を掲げ、諸役など免除する。
      11月 9日 正親町天皇、御倉職立入宗継を遣わして信長に綸旨を与え「古今無双の名将」と
             その武功を讃え、美濃・尾張両国の料所の回復を命じる。
      11月    坂井文助らに知行宛行いの朱印状を与える。
      12月 1日 奈良興福寺の衆徒に書状を送り、近日中に足利義昭を奉じて上洛することなどを報ずる。
     永禄11年(1568年) 信長35歳 光秀41歳 秀吉32歳 家康27歳
             
信長、北伊勢を支配下に入れる。
       4月27日 六角氏の家臣永原・佐治氏と盟約を結び、その所領を安堵する。
       7月25日 足利義昭を美濃の立政寺に迎え、義昭上洛の供奉を承諾す。
       8月 2日 近江甲賀の土豪に対して、近江に進発する予定日を告げ忠節を要請する。

       9月    信長、足利義昭を奉じて上洛する。
             三好三人衆、淀城、勝竜寺城、芥川城を陥され、阿波に逃亡する。
             三好義継、松永久秀は信長に降る。

         
    信長、足利義昭を擁し入京、畿内を制圧。
       9月 7日 尾張・美濃・北伊勢、さらに徳川家康の援軍など合わせて約
             6万の軍勢を率いて岐阜を出陣し、美濃の平尾に陣取る。
       9月 8日 近江の高宮に着陣する。
       9月11日 愛智川付近に野陣する。
       9月12日 夜、佐久間信盛・木下秀吉・丹羽長秀らが箕作城を陥れる。
       9月13日 観音寺城が陥落し六角承禎父子は伊賀に敗走する。
       9月14日 正親町天皇、信長に禁中の警固と京都市中における軍勢の乱暴狼藉の禁止を命ずる。
       9月22日 義昭を近江の桑実寺に迎える。
       9月24日 琵琶湖を渡海して信長は三井寺の極楽院、義昭は光浄院に宿す。
       9月26日 信長、足利義昭を奉じて入京する。
       9月29日 山城勝龍城寺の岩成友通を攻めて陥落させ、ついで摂津に軍勢を進め、
             10日余りのうちに諸城を攻略して三人衆を阿波に敗走させる。
       9月30日 義昭とともに芥川城に入る。

      10月    足利義昭、征夷大将軍に補任される。
             三好義継、若江城主となり信長より河内北半国を宛行われる。
      10月14日 河内から京都に帰り、清水寺に陣す。
      10月18日 足利義昭、征夷大将軍に補任される。
      10月22日 足利義昭、参内する。
      10月26日 京を発する。
      10月28日 岐阜に帰城する。

     永禄12年(1569年) 信長36歳 光秀42歳 秀吉33歳 家康28歳
             
信長、堺の町が三人衆を扶けたるを責め、矢銭二万貫を課す(自治都市堺の終焉)。
       1月    三人衆、阿波より入京して本圀寺の足利義昭邸を襲撃するも、撃退される。
       1月 5日 三好三人衆が、流浪中の斎藤龍興・長井道利らと足利義昭の宿所本圀寺を包囲する。
       1月 6日 三好義継・池田勝正などが撃退する。
       1月10日 信長、入京する。
       1月14日 幕府の「殿中御掟」九ヵ条と追加七ヵ条の掟書を定める。
       1月19日 禁中で三義長(三毬杖)の行事が行われ、
             信長も近習500人ばかり従えてを見物に赴く。
       2月 2日 強固な将軍家の新邸が必要となり、信長自ら総監督となり、造営に着手。

       3月    正親町天皇、信長に副将軍就任を求める。信長、これに奉答せず。
       3月 1日 撰銭令を定める。
       3月 2日 正親町天皇、信長に副将軍就任を求めるが、信長は奉答せずに勅使を帰す。

       4月    篠原長房、宣教師ルイス=フロイスの上洛を斡旋。
       4月 8日 宣教師ルイス・フロイス、布教の許可を得るため義昭新邸の工事場に信長を訪ねる。
       4月16日 朝山日乗に命じて朝廷に内裏の修理費用1万貫文を献上する。
       4月21日 帰国の挨拶のために義昭に謁する。

       
8月    信長、伊勢国司・北畠氏の攻略のため岐阜城を出陣する。
       8月20日 信長、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢などの軍勢約10万の兵を率いて
             伊勢国司北畠氏の攻略のため岐阜城を出馬し、桑名に着陣する。
       8月21日 鷹狩りののち白子観音寺に移陣。
       8月23日 木造に着陣する。
       8月26日 木下秀吉、阿坂城を陥れる。
       8月28日 北畠具教を大河内城に包囲する。
       9月 8日 丹羽長秀・稲葉一鉄・池田恒興ら3人に夜攻めを命ずるが降雨のため味方の鉄砲が
             役に立たず、多くの屈強の武士が討死する。

      10月    伊勢・北畠具教、降伏する。
             信長の次男・信雄に、北畠氏の家督を譲る。
             信長、伊勢を支配下に入れる。
      
10月 3日 北畠具教、開城して和を乞い、信長の次男茶筅丸(信雄)に家督を譲ることを約す。
             伊勢が支配下に入る。
      10月 5日 伊勢山田に着陣。
      10月 6日 伊勢神宮に参拝。
      10月 7日 木造まで戻る。
      10月 8日 伊勢の上野に着陣し、兵を諸国に帰す。
      10月 9日 大雪のなか千草峠を越える。
      10月10日 近江の市原に宿泊する。
      10月11日 馬廻衆を率いて上洛し、将軍義昭に伊勢平定を報告する。
      10月13日 参内して天盃を賜る。
      10月17日 急遽帰国してしまう。

          年表トップ
     元亀 元年(1570年) 信長37歳 光秀43歳 秀吉34歳 家康29歳
       
1月    義昭に五ヵ条の条書を送り、承認させる。
       
1月23日 義昭に五ヵ条の条書を送り、承認させる
       2月25日 岐阜を発つ。
       2月30日 申の刻に入京。公家衆・町衆ら出迎える。
       3月 1日 衣冠を着して参内し物を献上。

       4月    早朝、朝倉義景を討伐のため京を発す。
        〃     信長の妹婿浅井長政、離反する
        〃     信長、木下秀吉を金ヶ崎城に留めて退却する。「金ヶ崎の退き口」である。
       4月20日 早朝、朝倉義景討伐のため京を発す。
       4月21日 海津氏の田中城。
       4月22日 若狭松宮氏の熊川城に泊まる。
       4月23日 粟屋氏の佐柿城に入る。
       4月25日 越前の敦賀に軍勢を繰り出し直ちに手筒山城を陥れ、敵の首1370を討ち取る。
       4月26日 金ヶ崎・疋田両城も陥れ、すぐさま木ノ芽峠を越えて越前の乱入する態勢をとる。
       4月28日 夜、信長は木下秀吉を金ヶ崎城に留めて退却する。「金ヶ崎の退き口」
       4月30日 近江の朽木を越え、亥の下刻(夜11時頃)に帰京する。

       5月    信長、千草山中で杉谷善住坊に鉄砲で狙撃される。
       5月 9日 帰国のため、軍勢2万を率いて近江に下り、滋賀城に泊まる。
       5月12日 瀬田城。
       5月13日 永原城に泊まる。
       5月19日 六角承禎の挙兵により、近江路の帰還を断念して甲賀から千草越えに進む。
       5月20日 信長、千草山中の甲津畑で六角承禎のまわし者杉谷善住坊に鉄砲4挺で狙撃されるが、
             難を逃れる。
       5月21日 岐阜に着く

       6月    姉川の戦い
       6月 4日 柴田勝家と佐久間信盛が、六角承禎と南近江の落窪で戦い撃破する。
       6月19日 浅井長政討伐のため、岐阜城を出陣する。
       6月21日 長政の居城小谷に迫り城下を焼き払う。ついで、虎御前山に陣取る。
       6月24日 援軍の徳川家康と共に、竜ヶ鼻に移陣する。
       6月28日 午前10時頃、姉川の戦い始まる。

       7月    三人衆、挙兵して摂津中島城を占拠。
       7月 4日 申の刻、馬廻衆3騎を従えて入京し、義昭に姉川合戦の戦勝を報告する。
       8月    信長、摂津の野田・福島の砦を攻撃する。
       8月20日 三好三人衆討伐のため岐阜を出陣し、近江の横山城に入る。
       8月22日 長光寺に宿泊。
       8月23日 入京して下京本能寺に着陣。
       8月25日 京を発し、淀川を越えて河内枚方に陣取る。
       8月28日 摂津の天王寺に移陣して野田・福島の砦を攻撃する。

       9月    石山本願寺・顕如、各地の一向宗門徒に挙兵を命じる。
       9月    石山本願寺の顕如が、浅井・朝倉両氏および三好三人衆と手を結び、
             各地の一向宗門徒に挙兵を命じる。
       9月12日 一向宗門徒が信長の陣所を急襲する。
       9月20日 浅井・朝倉連合軍3万が南近江の宇佐山城を陥れて城将の織田信治・森可成を討ち取る。
       9月21日 大津から逢坂を越えて京都に接近するに至る。
       9月23日 信長、浅井・朝倉の挙兵を聞き、野田・福島両城の包囲を解き、子の刻に入京する。
       9月24日 宿所の本能寺を発ち近江の坂本に下る。
      10月20日 信長、膠着状態を打開すべく朝倉義景に決戦を申し入れるが
             義景は満を持して動く気配はなかった。
      11月21日 伊勢長島の一向一揆、尾張の小木江城を陥れる。城主で信長弟彦七信興、切腹する。
      12月14日 天皇・将軍の調停により、信長と義景が和睦する。
      12月16日 大雪中に軍を進め、佐和山の麓磯の郷に泊まる。
      12月17日 岐阜に帰城する。
             三人衆、石山本願寺と同盟して信長に抵抗する。
     元亀 2年(1571年) 信長38歳 光秀44歳 秀吉35歳 家康30歳
       
1月    信長、岐阜城で諸将の参賀を受ける
             信長、第一目標を比叡山攻略とする。

       1月 1日 岐阜城で諸将の参賀を受け、年頭の抱負として、比叡山延暦寺の攻略を
             第一目標とする決意を明らかにする。
       2月24日 浅井氏家臣で佐和山城将磯野員昌を招降して、同城を丹羽長秀に守らせ浅井氏を
             牽制させる。

       5月    篠原長房、讃岐より備前児島に進出する。
       5月    浅井長政が木下秀吉の守る横山城に攻撃を仕掛ける。
       5月12日 岐阜から尾張津島に着陣する。
       5月16日 三方より兵を繰り出して一揆の拠点願証寺を攻撃する。

       6月    三人衆、摂津、河内に進出し、信長軍と戦う。
       6月    越前大野郡の白山別山権現に鰐口を寄進し、「平信長」と刻字する。
       7月    近江の朽木氏が内応すると信長は急遽江北に出馬する。
       8月18日 岐阜から江北の横山城に着陣。
       8月26日 小谷と山本山の間の中島に移陣して余呉・木之本に放火する。
       8月27日 横山城に帰る。
       8月28日 佐和山城に着陣し、一向一揆勢の立て籠る志村城を陥落させる。

       
9月    信長、南近江の一向一揆を掃討する。
        〃     信長、
比叡山・延暦時を焼き払う。
       9月 3日 常楽寺に逗留して一揆の拠点金ヶ森城を陥れる。
       9月12日 諸将に比叡山の焼き討ちを命じて坂本より攻め上らせ根本中堂をはじめ
             山王二十一社などをことごとく焼き払い、僧侶3、4千人を討つ。
       9月13日 巳の刻も小姓衆・馬廻衆ばかりを率いて入京し、妙覚寺に泊まる。
       9月18日 京を発ち近江の永原に泊まる。
       9月20日 岐阜に帰城する。
       9月25日 上杉謙信に書状を送り鷹の到来を謝している。
      10月14日 細川藤孝に、西国街道の要所に当たる山城勝龍寺城の普請を厳しくさせ、
             合わせて厳重な守備を命じる。
      12月14日 岐阜を発し尾張で鷹狩りする。
      12月28日 岐阜に帰城する。


     元亀 3年(1572年) 信長39歳 光秀45歳 秀吉36歳 家康31歳
       1月    岐阜城で奇妙丸(16歳)・茶筅丸(15歳)・三七丸(15歳)の三兄弟を元服させ
            、それぞれ勘九郎信重(のち信忠)・三介具豊(のち信雄)・三七信孝と名乗らせる。
       3月 5日 岐阜を発して美濃赤坂に着陣。
       3月 6日 横山城に入る。
       3月 7日 小谷と山本山の間に野陣を張り付近に放火して浅井氏を牽制する。
       3月 9日 横山城に帰る。
       3月10日 常楽寺に泊まる。
       3月11日 和邇に移陣して木戸・田中に砦を築き明智光秀・丹羽長秀らに守らせる。
       3月12日 未の刻、兵700を率いて入京し妙覚寺に陣取る。
       3月27日 将軍義昭、信長邸の工事を始めさせる。
       4月16日 三好義継と松永久秀が信長に反旗をひるがえして、畠山昭高の武将安見新七郎を
             河内の交野城に攻める。信長、佐久間信盛・柴田勝家ら兵2万を遣わして救援する。
       5月    信長への大包囲網が形成される。
              石山本願寺   将軍・足利義昭
              朝倉氏・浅井氏 甲斐の武田信玄
              松永氏・三好氏
             信長にとって、生涯で最も苦しい時期であった。
       5月 2日 朝倉義景が三好義嗣に送った密使の僧侶2人を捕え、京の一条戻橋で焼き殺す。
       5月14日 京を発し下向する。
       5月19日 岐阜に帰城する。
       7月19日 浅井氏討伐のため、初陣の嫡男信重(信忠)と共に岐阜を出陣して赤坂に着陣。
       7月20日 横山城に入る。
       7月21日 小谷城下の町家を壊す。
       7月22日 木下秀吉に命じて山本山を攻略する。
       7月23日 北上して越前国境付近まで兵を進め放火する。
       7月24日 竹生島を舟で攻め寄せ、火矢・大筒・鉄砲で攻めかける。
       7月27日 虎御前山に砦を築き小谷城の押さえとする。
       8月 2日 浅井長政の注進により越前から朝倉義景が兵1万5千を率いて小谷城の山崎丸に入り、
             信長軍と対峙する。
       8月 8日 朝倉氏重臣の前波長俊父子は信長の陣所に投稿する。
       8月 9日 同家家臣富田長繁らも寝返る。
    
   9月    信長、義昭に異見十七ヵ条の条書を送り、失政を諫める。
       9月16日 信長、虎御前山の砦を木下秀吉に守らせて横山城に引き上げ、ついで岐阜に帰城する。
      10月    甲府を出発した武田信玄は、遠江に怒涛のことく侵入して徳川家康の居城浜松に
             急迫する勢いであった。
      11月14日 武田信玄の武将秋山信友、美濃の岩村城を陥れ、城主遠山氏の養子御坊丸(信長の子)を
             人質として甲斐に送る。

      12月    織田・徳川連合軍、遠江・三方ヶ原で武田信玄と戦い、惨敗する。
      
12月22日 織田・徳川連合軍、遠江三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗する。
         
    三方ヶ原の戦い。
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     天正 元年(1573年) 信長40歳 光秀46歳 秀吉37歳 家康32歳
       
2月    武田晴信、三河野田城に病み、没す。
       2月20日 柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆を近江に出陣させる。

       3月    足利義昭、松永久秀、三人衆と同盟し、信長に叛く。

       3月25日
 上洛のため岐阜城を発す。
       3月29日 細川藤孝・荒木村重、信長を近江逢坂に出迎える。

     
  4月    信長、京都洛中洛外を焼く。
       
4月 3日 洛外に放火。
       4月 4日 上京を焼き尽くし、義昭の御所を包囲する。
       4月 7日 天皇の調停により信長と義昭が和睦する事を約す。

       4月 8日
 出京して守山に下り、六角承禎を鯰江城を攻める。
       4月 8日 出京して守山に下り、六角承禎を鯰江城を攻める。

       4月11日 岐阜に帰城する。
       4月11日 岐阜に帰城する。
       4月12日 武田信玄、病没する。

       4月12日 武田信玄、病没する。

       
5月    信長、丹羽長秀に命じて、長さ30間・横7間・櫓100挺立ての大船を建造させる。
       5月    篠原長房、阿波上桜に細川真之と戦って敗死。
       
5月15日 信長、丹羽長秀に命じて、長さ30間・横7間・櫓100挺立ての大船を建造させる。
       7月    将軍足利義昭、山城槇島城で信長に敗れ、河内若江城に三好義継を頼る。
          
   義昭、二条城を側近の三淵藤英に守らせ、自らは宇治の槙島城に立て籠り、
             再び挙兵する。
             信長、両城を瞬時に陥れる。
             ここに、室町幕府は、事実上滅亡した。
             
室町幕府滅亡。
       
7月 3日 足利義昭、二条城を側近の三淵藤英の守らせ、自らは宇治の槇島城に立て籠もり、
             再び挙兵する。

       7月 5日 大船を竣工する。
       
7月 7日 佐和山から新造船に乗り坂本に着陣。
       7月 9日 入京し妙覚寺に在陣する。

       
7月12日 二条城を陥れて即時に破却。ついで槇島城に兵を進める。
       7月17日 自身が京を出る。
       7月18日 槇島城を陥れる。
       7月21日 京都に凱旋して、村井貞勝を京都所司代に任ずる。

       
7月27日 京都を発して坂本から新造船に乗り西近江の高島に至り、田中・木戸両城を陥れる。
             同城を明智光秀に与える。
       7月28日 朝廷、信長の秦請により「天正」と改元する。

       
8月    信長、浅井・朝倉討滅に向かう。 
             信長、木ノ芽峠を越え越前に乱入する。
             朝倉義景、自刃して果てる。
             浅井長政、小谷城にて自害する。
             石成友通、山城淀城に細川藤孝と戦って敗死。
       
8月 8日 夜中に岐阜を出馬して月ヶ瀬城を陥れる。
       8月13日 朝倉勢撃退させ、敗走する義景を追撃して朝倉の武将や斎藤龍興らの
             首3千余を討ち取る。
       8月14日 敦賀に逗留して兵馬を休める(16日まで)。
       8月17日 木ノ芽峠を越え越前に乱入する。
       8月18日 府中まで一挙に侵入する。
       8月20日 義景、自刃して果てる。
       8月26日 越前から近江の虎御前山に兵を返す。
       8月27日 直ちに小谷城を攻略する。
       8月28日 小谷城を陥れ浅井長政滅亡する。
       9月 4日 佐和山に移陣。
       9月 6日 岐阜に帰城する。
       9月10日 先年(元亀元年5月9日)千草山中で信長を狙撃した杉谷善住坊を近江の高島に捕らえ、
             岐阜城下において善住坊をたてに埋め鋸引の刑に処す。
       9月24日 伊勢長島一向一揆討伐のため岐阜を出陣し、大垣城に泊まる。
       9月25日 太田城に移陣する。
       9月26日 桑名方面に出兵させる。
      10月26日 岐阜に帰城する。
      11月    三好義継、河内若江城に佐久間信盛と戦って敗死(三好氏本宗滅ぶ)
      11月 4日 岐阜を立つ。
      11月10日 入京する。
      11月16日 佐久間信盛を遣わして、河内の若江城に三好義継を攻めて滅亡させる。
      11月23日 妙覚寺で茶会を開く。
      12月16日 岐阜に下向する。
      12月26日 大和多聞山城の松永久秀、信長に降伏を申し入れ城を明け渡す。

     天正 2年(1574年) 信長41歳 光秀47歳 秀吉38歳 家康33歳
       1月 1日 岐阜城で諸将の参賀を受ける。
       2月 3日 岐阜城に茶会を開く。
       2月 5日 武田勝頼、美濃の明智城を囲む。信長父子、救援のため岐阜から御嵩に出陣する。
       2月 6日 高野に移陣する。
       2月24日 岐阜に帰城。

       
3月    信長、東大寺正倉院の名香木・蘭奢待を賜る。
       
3月12日 岐阜を発ち佐和山城に2、3日逗留する。
       
3月16日 永原城に泊まる。
       
3月17日 志那より乗船して坂本に着き、ついで入京して相国寺に寄宿する。
       3月27日 奈良の多聞山城に下る。
       3月28日 勅許を得て東大寺正倉院の名香木「蘭奢待」を賜る。

       
4月    三好康長、河内高屋城に拠って、信長に抵抗する。
       
4月 1日 京都に帰る。
       4月13日 六角承禎を近江の石部城に攻めて陥れる。
       5月16日 三河の徳川家康から武田勝頼が遠江の高天神城を包囲したとの注進を受け、
             急遽京を発して帰国する。
       6月14日 信長父子、岐阜を出陣する。
       6月17日 三河の吉田城に着陣する。
       6月19日 遠江今切の渡しまで軍を進めるが、
高天神城陥落の急報を受け、兵を引き返す。
       6月21日 岐阜に帰城する。

       7月    信長父子、伊勢長島の一向一揆を討伐のため岐阜を出陣。

       
7月13日 信長父子、伊勢長島の一向一揆を討伐のため岐阜を出陣する。
       7月14日 五明に野陣する。
       7月15日 九鬼水軍が四方より攻撃を始めると、一揆勢は篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の
             各砦に四散して立て籠もったが、それぞれの砦は完全に包囲されて孤立していた。
             信長軍は大鉄砲で容赦なく塀や櫓を崩していった。
       8月 2日 大鳥居が、つづいて篠橋砦が落城した。

       
9月    伊勢長島の一向一揆勢、信長に降伏する。
       
9月    一揆勢は3ヶ月に及ぶ籠城でその兵糧も底をつき、長島砦を開けて降伏した。
             そして、残る屋長島・中江の両砦は幾重にも柵をめぐらせて四方より放火して
             男女余2万余の人々が焼き殺された。
       9月29日 一揆の平定を終え岐阜に帰陣。
      10月末頃  入京する。
      11月25日 京を発ち帰国する。
      12月    分国の道路を整備させ、道の幅を三間半、険しい道は平らにして石を除き、
             その左右に松と柳を植えさせ、付近の者に掃除を義務づけた。

     天正 3年(1575年) 信長42歳 光秀48歳 秀吉39歳 家康34歳
       2月27日 岐阜を発ち美濃の垂井に至る。
       2月28日 雨天のため逗留。
       2月29日 佐和山城に入る。
       3月 2日 永原に泊まる。
       3月 3日 大塚から新道を経て京に入り、相国寺慈照院に寄宿する。
       3月16日 相国寺で今川氏真を引見する。
       3月20日 氏真の蹴鞠を見物する。
       4月    三好康長、河内高屋城を開け、信長に降る。
       4月 6日 京を出て八幡に着陣。
       4月 7日 河内の若江に移陣して、本願寺の支城の萱振を攻略。
       4月 8日 三好康長を河内高屋城に攻撃し、自身は駒ヶ岳山から合戦を見物。
       4月12日 摂津の住吉。
       4月13日 天王寺に移陣。
       4月14日 石山本願寺を攻撃する。
       4月17日 堺付近の新堀城陥れ、三好方の十河因幡主・香西越後の守を討ち取る。
             また三好康長の降伏により、高屋城をはじめ河内の城をことごとく破却する。
       4月21日 京都に帰る。
       4月28日 京を発し、坂本から明智光秀所有の船に乗り安土の常楽寺に帰る。
       5月    信長、武田勝頼と長篠にて戦う。
            勝頼、大敗する。
       
5月13日 信長父子、岐阜を出陣して熱田に到着。
       5月14日 三河の岡崎。
       5月16日 牛久保。
       5月17日
 野田原に野陣する。
       
5月18日 信長は設楽原の極楽寺に、子の信忠は新御堂山に、また家康は高松山に陣取る。
       5月21日 長篠城の西方の設楽原の連子川を挟み両軍が激戦する。織田・徳川連合軍馬防柵を築き
             大量の鉄砲隊を駆使して武田軍の騎馬隊を大破する。
       5月25日 信長父子、岐阜に帰城する。
       6月26日 岐阜を発ち佐和山に至る。
       6月27日 早船で坂本に渡海して入京し相国寺に寄宿する。
       7月    信長、越前の一向一揆討伐の指令を出す。
       
7月 1日 公家衆や畿内近国の諸将が信長に礼参。
       7月 3日 禁中に参内して、皇太子誠仁親王の蹴鞠を見物したのち天盃を賜り、天皇からは
             官位昇叙の内命があった。信長はのその内命を辞退する。
       7月15日 京を発し瀬田に着き、瀬田橋のかけ替えを命じ、
             長さ180間・広さ4間の大橋を築造させる。
             常楽寺に泊まる。
       7月16日 美濃の垂井に泊まる。
       7月17日 稲葉一鉄の居城に曽根城に立ち寄り、岐阜に帰城する。
       8月    越前の一向一揆勢、壊滅する。
       8月12日 美濃の垂井に至る。
       8月13日 小谷城に入り、将兵全員に兵糧を遣わす。
       8月14日 敦賀に着陣して軍勢を整える。
       8月15日 木ノ芽峠や浜手などの諸口から怒涛のように進撃を始めた織田軍は、一揆勢の城塞を
             瞬く間に陥れ早くその夜に羽柴秀吉・明智光秀らが府中に乱入する勢いであった。
       8月16日 信長は本陣を府中の龍門寺に進め一揆の掃討にかかる。
       8月23日 旧朝倉氏の一条谷。
       8月28日 豊原に移陣する。
       9月    長會我部元親、三好長治の阿波海部城を奪取。
       9月 2日 北ノ庄に陣を移して越前の仕置を定める。
       9月23日 北ノ庄から府中に兵を返す。
       9月24日 近江の椿坂に泊まる。
       9月25日 垂井に着陣。
       9月26日 岐阜に帰城する。
      10月10日 上洛のため岐阜を発し垂井に至る。
      10月11日 佐和山城。
      10月12日 永原城に泊まる。
      10月13日 竣工した瀬田大橋を見物したのち、未の刻に入京し妙覚寺に寄宿する。
      10月19日 出羽米沢城の伊達輝宗の使者を清水寺に引見。
      10月20日 播磨の赤松・小寺・別所・浦上の諸将が礼参し、ここに播磨国も織田政権の
             勢力図に組み込まれた。
      10月21日 石山本願寺からの講和を受諾する。
      11月    信長、従三位権大納言に叙任。
             信長、右近衛大将を兼任する。

             
信長、初めて公卿に列せられる。
             信長、嫡男・信忠に岐阜城を与え、家督相続を表明する。
      11月 4日 従三位権大納言に叙任。
      11月 7日 右近衛大将を兼任する。
      11月14日 二ヶ月に及ぶ凱旋・任官祝賀に賑わう在京中のこと、本国美濃では
             武田勝頼の侵略が開始されていた。そのため信長は急遽帰国する。
      11月16日 岐阜に着く。
      11月28日 嫡男信忠に岐阜城を与え、家督の譲与を表明する。

        
     長篠の戦い。

     天正 4年(1576年) 信長43歳 光秀49歳 秀吉40歳 家康35歳
             
信長、安土城に移る。
       1月    信長、近江・安土に築城を開始する。
       
1月中旬  近江の安土に築城を始める。
       2月    信長、安土城を居城とする。
       2月25日 岐阜から移る。
       4月29日 摂津の石山本願寺討伐のため、入京して妙覚寺に寄宿する。

       5月    一向宗門徒、石山本願寺に籠城する、
             信長、兵糧攻めの長期持久戦に持ち込む。
       
5月 3日 信長は配下の武将に本願寺を三方から包囲して攻撃させていたが、
             重臣の1人原田直政ら多数が戦死して敗れる。
       5月 5日 敗戦を聞いた信長は自ら出馬して河内の若江城に入る。
       5月 7日 四天王寺の一揆勢を大破する。
             これ以後一向宗門徒は石山に籠城、信長は経済封鎖して兵糧攻めの長期戦に持ちこむ。
       6月 5日 帰陣し若江城に泊まる。
       6月 6日 山城の槇島城に立ち寄り、未の刻に妙覚寺に入る。
       6月 8日 未の刻に安土に下向する。
       6月10日 朝廷、信長の奏請により常陸の佐竹義重を従五位下常陸に叙任する。
       7月    毛利水軍、織田水軍を木津川の河口で撃破する。
       7月13日 毛利輝元、水軍7、8百艘を送り、織田水軍3百艘を木津川の河口に撃破して
             石山本願寺に兵糧を運び入れる。
       8月 4日 常陸の江戸重通を但馬守に任ずる。
      11月 4日 申の刻に入京して妙覚寺に寄宿。公家衆など2千人が出迎える。
      11月21日 正三位内大臣に叙任する。
      11月23日 京を発し近江の石山に逗留する。
      11月25日 安土に帰城する。
      12月    細川真之、阿波勝瑞城を出奔、長會我部氏に降る。
      
12月10日 三河の吉良に鷹狩りのため東下し、佐和山城に入る。
      12月11日 岐阜泊。
      12月13日 清州城に着き、しばらく逗留。
      12月22日 3日間、吉良で鷹狩り。
      12月26日 清州に戻り、晦日岐阜にて越年する。

     天正 5年(1577年) 信長44歳 光秀50歳 秀吉41歳 家康36歳

       
1月 2日 安土に帰城する。
       1月 4日
 城中で新年の茶会を開く。
       1月14日 入京して妙覚寺に寄宿する。若狭守護の武田義統、播磨の別所長治・浦上宗景ら
             近国の大名が年始のため出仕する。
       1月15日 公家衆、信長に年頭を賀す。
       1月18日 正親町天皇、信長に太刀を下賜する。
       1月19日 太刀・馬などを献上。
       1月25日 未明に安土に帰城する。

       2月    信長、上洛し、妙覚寺に入る。
             信長、紀伊・雑賀、根来の討伐を開始する。
             長會我部元親、阿波大西城を占拠。
       
2月 8日 再び入京して妙覚寺に泊まる。
       2月13日 京都を発し淀川を越えて八幡に着陣。
       2月14日 降雨のため滞陣。
             尾張・美濃などの東国衆は風雨のなかを槇島と宇治の橋を渡って参陣した。
       2月15日 河内の若江。
       2月16日 和泉の香庄に在陣する。貝塚に立て籠もる一揆勢、夜になり戦わずして船で退散する。
       2月18日 佐野に着陣。
       2月22日 志立に至り、軍勢を山手と浜手に二分して雑賀に向けて進軍させる。山手方向は、
             三緘衆と杉の坊を案内者として佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・堀秀治らが進み、
             小雑賀川を渡るが、一揆の鉄砲に撃退される。
             一方、海筋から織田一族と明智光秀・細川藤孝・滝川一益らが進む。
       2月28日 信長、淡輪に着く。
       3月    信長、紀伊・雑賀の鈴木孫一を攻撃する。
             
信長、鳥取郷・若宮八幡宮に陣を移す。
             
鈴木孫一ら7人が誓紙を提出して降伏する。
             
信長、安土に帰城する。
             三好長治、阿波荒田野に細川真之と戦って敗死(阿波三好氏滅ぶ)。

       3月 1日 雑賀の鈴木孫一の居城を一斉攻撃する。
       3月 2日 鳥取郷の若宮八幡宮に移陣する。
       3月15日 鈴木孫一ら一揆の指導者7人が誓紙を提出して降伏する。
       3月21日 佐野に要害を築き織田信張・杉の坊を定番とする。
       3月23日 若江。
       3月24日 八幡。
       3月25日 帰洛して妙覚寺に凱旋する。

       
3月27日 安土に帰城する。
       
6月    信長、十三ヵ条の掟を定める。「定 安土山下町中」
             楽市楽座・諸役免除、商業活動の自由を認め、興隆を計る。
       
6月    「定 安土山下町中」という十三ヵ条の掟を定め、城下町を楽市楽座・諸役免除して
             商業活動の自由を認め、城下の興隆政策を打ち出す。
       7月 6日 上京し二条屋敷に正式に入居する。これ以後、二条御新造と呼ばれ
             京都における信長の宿舎として、あるいは織田政権の京都の政庁となる。
       7月12日 前関白近衛前久の息明丸、二条御新造で信長の加冠により元服し、
             その偏諱を受けて信基と名乗る。
       7月13日 下向して山岡景隆の瀬田城に泊まる。
       7月14日 安土に帰城する。
       8月 8日 柴田勝家を大将として、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀・明智光秀ら
             織田軍の主力部隊を加賀に派遣する。
      10月    松永久秀父子、信貴山城に拠って信長に叛し、敗死。
         
    松永久秀、信貴山城で謀反を起こす。
             信長、信忠に命じて松永久秀を討伐させる。
             羽柴秀吉・丹羽長秀・明智光秀らを信忠の指揮下に入れる。
             信貴山城を陥れる。
             松永久秀、爆死。
      10月 1日 岐阜の信忠に命じ松永久秀を討伐させる。
      10月 3日 北国遠征中の羽柴秀吉・丹羽長秀・明智光秀らを呼び戻して信忠に従軍させ、
             信貴山城を包囲する。
      10月10日 晩に総攻撃して陥れる。
      11月14日 未明に上京して二条御新造に入る。
      11月16日 従二位に叙す。
      11月20日 右大臣に任官する。
      12月 3日 安土に帰城する。
      12月10日 三河吉良に鷹狩りのため下向して佐和山に泊まる。
      12月11日 垂井。
      12月12日 岐阜。
      12月14日 降雨の中を清州に至る。
      12月15日 吉良に鷹狩りする。
      12月19日 岐阜に戻る。
      12月21日 安土に帰城する。

     天正 6年(1578年) 信長45歳 光秀51歳 秀吉42歳 家康37歳
       
1月 1日 年始にあたり、五畿内・若狭・越前・尾張・近江・伊勢をはじめ
             諸国の大名・武将らが出仕して祝賀する。
       1月 6日 正二位に叙せられる。
       1月12日 堺の豪商津田宗及が安土に年賀の参礼に訪れた際、信長から直々に安土城を案内され
             居間の襖絵を見物した後、「黄金1万枚ほど見甲候」と日記に記す。
       1月13日 再び鷹狩りのため東下して柏原に至る。
       1月14日 岐阜城に入る。
       1月15日 当日も逗留。
       1月16日 清州に着く。

       
1月18日 三河吉良で放鷹する。
       1月22日 尾張に戻る。
       1月23日 岐阜に到着する。
       1月24日 当日も逗留する。
       1月25日 安土に帰城する。

       
2月 3日 旧浅井氏家臣で信長に寝返った磯野員昌が信長に背き高野山に出奔する。
             信長、その旧領近江高島郡を甥の織田信澄に与える。

       3月    越後の上杉謙信、死去。

       
3月 6日 近江の奥の島山に放鷹する。長命寺の若林坊に宿泊。
       3月 8日 安土に帰る。
       3月13日 当面の敵上杉謙信死去。
       3月23日 上京し二条御新造に入る。
       3月25日
 「朦気」を病む。
       4月    信長、右大臣・右近衛大将の両官辞任を奏聞し、勅許される。
       
4月 9日 朝廷に右大臣・右近衛大将の両官辞任を奏聞し、勅許される。
       4月27日 再び上京する。
       4月29日 信忠らに尾張・美濃・伊勢の兵を率いて播磨に出馬させる。

       
5月 7日 この日より大雨が続き京都市中が大洪水となる。
       5月13日 信長、出陣を延期する。
       5月27日 安土の洪水被害視察のため下向し、大津の松本より草津の矢橋まで乗船して安土に帰城。

       
6月    九鬼嘉隆、甲鉄船6艘をもって、和泉・淡輪沖で一向宗門徒の船を撃破する。
       
6月10日 矢橋から乗船して松本に至り、未の刻に上京。
       6月16日 羽柴秀吉入京して信長に播磨攻略の支持を受ける。
       6月21日 安土に帰城。
       6月26日 九鬼嘉隆率いる甲鉄船6艘、和泉淡輪の沖で一向宗門徒の船を大鉄砲によって撃破する。

       9月    信長、甲鉄船視察のため下向。八幡に着。
       
9月23日 上京の途につき瀬田に泊まる。
       9月24日 二条御新造に入る。
       9月27日 甲鉄船視察のため下向し八幡に着。
       9月28日 若江。
       9月29日 住吉社家に宿泊。
       9月30日 明け方に堺に至り甲鉄船を視察する。ついで、住吉社家に戻る。
      10月    荒木村重、本願寺・毛利氏と密約を結び信長に背く。
     
 10月 1日 帰京する。
      10月 6日 京を発ち坂本より乗船して安土に帰城する。
      10月21日 摂津守護の有岡(伊丹)城主荒木村重、本願寺・毛利氏と密約を結び信長に背く。
      11月 3日 上京して二条御新造に入る。信長は明智光秀らを有岡城に遣わし、
             生母を人質とすること約して再三にわたり荒木村重を慰諭させるが、拒絶される。
      11月 9日 京を発ち山崎に陣を張る。村重配下の高槻城の高山右近を誘降する。
      11月14日 有岡城の総攻撃を命じる。
      11月15日 摂津の郡山。
      11月18日 惣持寺に移陣。
      11月24日 茨木城の中川清秀を誘降する。
      11月27日 再び郡山より古池田に移陣する。
      11月28日 昆陽に移陣。
      12月11日 再び古池田に陣を移し各武将に有岡城包囲の付城を守備させる。
      12月21日 上京する。
      12月25日 安土に帰城する。

     天正 7年(1579年) 信長46歳 光秀52歳 秀吉43歳 家康38歳
       1月 5日 諸将が有岡(伊丹)城包囲に在陣していたため、九鬼嘉隆のみ正月の参賀に登城する。
       2月18日 上京し二条御新造に入る。
       2月21日 東山の慈照院付近で放鷹する。
       2月26日       〃

       
3月 2日 加賀山で放鷹する。
       3月 4日 信忠・信雄・信包・信孝ら上洛する。
       3月 5日 信長父子、荒木村重討伐のため下向して山崎に至る。
       3月 6日 天神馬場から放鷹しながら郡山に移陣。
       3月 7日 古池田に陣して各武将には有岡城を四方に包囲させる。
       3月14日 多田の谷に放鷹する。

       
4月12日 信忠、播磨に出兵して三木城の付城を6ヶ所築き、さらに小寺政職の居城御着城の城下に
             放火する。

       
4月29日 信忠、古池田まで帰陣し、信長に播磨の戦況を復命する。京都を経て岐阜に向かう。。
       4月30日 信忠、岐阜に帰城する。
       5月    浄土宗と法華宗の僧侶、安土で宗論する。
       5月 1日 信長、帰京する。
       5月 3日 小姓衆ばかりをつれて京を発ち坂本から乗船して安土に帰城する。
       5月11日 吉日につき、安土の「天主」に正式に移る。
       5月27日 浄土宗と法華宗(日蓮宗)の僧侶、安土の浄厳院で宗論する。
       6月18日 徳川家康、信長に馬を進上する。
       7月25日 奥州の遠野孫次郎広郷から、まことに雪のごとく白い羽毛をした
             「しろの御鷹」を進上される。
       7月26日 遠野広郷の使者と当時上洛していた津軽の南部宮内少輔利直に安土城の天主を
             見物させる。
       9月    信長、徳川家康に命じ、その子信康を切腹させる。
       9月 2日 有岡(伊丹)城の荒木村重、脱出して尼崎城に移って籠城する。
       9月11日 荒木村重包囲の戦況視察のため上京。
       9月15日 徳川家康に命じてその子信康を切腹させる。
       9月18日 二条御新造で公家衆の蹴鞠を見物する。
       9月21日 下向して山崎に泊まり、降雨のため2日間逗留。
       9月22日 次男の信雄に、独断で伊賀に侵入して大敗したことに対する諫言状を送り叱責する。
       9月24日 古池田に移陣。
       9月27日 有岡城包囲の諸将を見舞い、ついで古池田に戻る。
       9月28日 初めて茨木に立ち寄り、帰京する。
      10月 8日 夜の四ツ時(10時頃)に出京し、明朝の日の出頃に安土に帰城。
      10月24日 明智光秀、丹波・丹後両国の平定を復命する。
      10月30日 備前岡山の宇喜多直家が降伏し、信長の麾下となる。
      11月    信忠ら、摂津・有岡(伊丹)城を陥れる。
      11月 3日 上京のため瀬田橋の御茶屋に泊まる。
      11月 4日 入京。
      11月 5日 禁裏に奏聞して二条御新造を皇太子誠仁親王に進献する。
      11月 6日 10日にかけて東山で放鷹する。
      11月16日 亥の刻、二条御新造から宿所を西隣の妙覚寺に移す。
      11月19日 信忠ら、摂津の有岡(伊丹)城を陥れる。
      11月22日 誠仁親王、巳の刻(午前10時頃)に御所より二条御新造に移る。
             この後、二条御新造は二条御所となる。
             信長はこの盛儀を見届けたのち、
             未の刻(午後2時頃)に妙覚寺で津田宗及を招いて茶会を開く。
      12月10日 京を発ち山崎に至る。
      12月12日 この日まで宝積寺に逗留。
      12月14日 帰京。
      12月18日 戌の刻に二条御所に祗候する。
      12月19日 未明に京を発つ。終日降雨のなかを安土に帰城する。
     天正 8年(1580年) 信長47歳 光秀53歳 秀吉44歳 家康39歳
       
1月    勝瑞城主十河存保(三好義賢の子)、讃岐に逃亡。
       
1月 1日 終日降雪の安土城に、諸将が摂津在陣のため参賀はなかった。
       1月17日 羽柴秀吉、播磨の三木城を陥れ別所長治を切腹させる。

       
2月    信長、上洛し、妙覚寺に入る。
             
信長、東山にて、終日放鷹する。
             
信長、京都所司代・村井貞勝に命じて、本能寺に新たな宿所を造営させる。
       
2月21日 未の下刻上京し妙覚寺に入る。
       2月24日 東山に終日放鷹する。
       2月25日     〃

       2月26日 所司代村井貞勝に命じて、本能寺に新たな宿所を造営させる。
       
2月27日 京を出て山崎に至る。
       2月30日 この日まで逗留する。この間山崎の西山にて放鷹する。

       
3月    信長、朝廷の斡旋により、石山本願寺と和議を結ぶ。
       
3月 1日 天神馬場・太田付近に放鷹しながら摂津の郡山に至る。
       3月 3日 有岡(伊丹)城に入り検分する。
       3月 5日 朝廷の斡旋により、信長、本願寺と和議を結ぶ。
       3月 7日 伊丹より放鷹しながら郡山に戻る。
       3月 8日 帰京し、直ちに北山に放鷹する。
       3月 9日 相模北条氏政の使者を本能寺に引見する。
       3月10日 巳の刻、京を発ち安土に帰る。
       3月15日 乗船して長命寺に至る。
       3月19日 この日まで奥の島に「しろの御鷹」を放鷹する。
       3月28日 再び
この日まで奥の島に放鷹する。
       
4月 9日 門跡の顕如は石山を退去して紀州の雑賀に落ちる。
             だが、その子教如は徹底抗戦を叫んでそのまま石山に籠城を続ける。
       4月11日 安土で鷹狩り。
       4月24日    〃
       5月 5日 相撲見物。
       5月17日   〃

       
6月24日   〃
       7月14日 上京する。
       7月17日 信長、本願寺新門主教如と誓紙を交し、教如は来る8月10日以前の石山退去を約す。
       8月    本願寺教如、石山を退去し、雑賀に落ちる。
             
信長、重臣の佐久間信盛父子に対し、十九ヵ状にのぼる叱責を書き連ねた
             折檻状を与える。
             信長、父子二人を高野山に追放する。
             信長、同じく宿老の林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝をも追放する。

       8月    丹波国を明智光秀、丹後国を細川藤孝に与える。
       8月 2日 本願寺教如は石山を退去して雑賀に落ちる。
       8月15日 未明に京を発つ。宇治橋を見物、さらに正遷宮を終えた直後の石清水八幡宮を参詣。
             ついで、灰燼に帰した石山本願寺を検分するため船で淀川を南下して大坂に至る。
       8月23日 未の刻入京する。
       8月28日 午の刻京を発ち安土に帰る。
      11月 7日 筒井順慶を大和の守護となし郡山を与える。
      11月17日 柴田勝家、加賀の一向一揆を攻略してその首謀者19人の首を安土に送致する。
     天正 9年(1581年) 信長48歳 光秀54歳 秀吉45歳 家康40歳
       
1月 1日 在国諸将の参賀を取り止める。安土城の北、松原町の西に馬場を築かせる。
       1月15日 左義長(三毬杖)。
       
2月    宣教師バリニャーニ、黒人を連れて信長に謁見する。
             信長、柴田勝家に加賀の平定を復命する。
       
2月20日 申の下刻に上京し本能寺に入る。
       2月23日
 宣教師バリニャーニ、黒人を連れて信長に謁見する。
       2月24日 柴田勝家、加賀の平定を復命する。
       2月28日 禁裏の東門外に馬場を築き、公家衆・諸将らを騎乗させ馬揃えを興行する。
             天皇、見物する。
       
3月    信長、京より安土に帰る。
       
3月 7日 正親天皇、信長に左大臣任官を勧める。
       3月 9日 信長、誠仁親王への譲位後に拝命する旨を奏請する。

       3月10日 未明に京より安土に帰る。以後、本能寺の変まで1年3ヵ月信長の上京はない。
       3月28日 菅屋長頼を能登七尾城代として派遣し、能登が平定される。
       4月10日 小姓衆5、6人を召し連れて竹生島に参詣する。
       4月21日 安土城に相撲を興行する。

       
9月    信長、信雄を総大将として、伊賀討伐を命じる。
       9月 3日 信雄を総大将として、伊賀討伐を命じる。
             甲賀口・信楽口・大和口の三方から侵入した織田の大軍によって
             11日までに瞬く間に平定され、信雄と信包の分国となった。
      10月    信長、「伊賀国御見物」のため下向する。
      10月 9日 平定なった「伊賀国御見物」のため下向する。信忠・甥の信澄も同道する。
             水口の飯道寺へ登り、国内を遠望する。
      10月10日 伊賀の一宮を経て国見山に登り、滝川一益の構えた御座所より国中を眺望する。
      
10月11日 雨天により逗留。
      10月12日 小波多に在陣する信雄・筒井順慶・丹羽長秀を見舞う。
      10月13日 伊賀の一宮より安土に帰る。
      10月17日 長光寺山に放鷹する。
      10月25日 羽柴秀吉、因幡に侵入して鳥取を5ヵ月に及んで包囲し、
             ついに落城させて城主吉川経家が切腹する。
      11月    羽柴秀吉、淡路を制圧し、安宅信康を追放。
      
11月    羽柴秀吉、淡路島に上陸して瞬く間に平定する。
      12月    甲斐侵攻のため徳川家康の領国三河に兵糧を送る。

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     天正10年(1582年) 信長49歳 光秀55歳 秀吉46歳 家康41歳
       
1月 1日 諸国の大名・諸将・織田一族の面々が参賀のため安土に登城する。
       2月    信長、三好康長を将として、阿波に出陣させる。
       2月 1日 木曽義昌、信長に通じる。
       2月 3日 信長、甲斐侵攻の進路を定める。
       2月 6日 信忠先陣、森長可・団忠直ら、信濃・滝沢城を陥す。
       2月12日 信忠、岐阜を出陣。
             信忠本軍、滝川一益・河尻秀隆・毛利秀頼。
             信忠、土田に着陣。
       2月13日 信忠、高野に着陣。
       2月14日 信忠、岩村城に着陣。
             信忠先陣、森長可・団忠直ら、信濃・松尾城を陥す。
       2月16日 信忠、平谷に至る。
             信忠先陣、森長可・団忠直ら、鳥居峠で今福昌和を撃破する。
       2月17日 信忠、飯田に至る。
             信忠、信濃・大島城を陥す。

             信忠、信濃・飯島城に移る。
       3月 1日 信忠、信濃・高遠城に迫る。
        〃  2日 信忠、信濃・高遠城を陥す。
        〃  3日 信忠、上諏訪へ陣を移す。
        〃  5日 信忠本軍、甲府に乱入する。
        〃  5日 武田勝頼、信忠軍に追われ、天目山麓・田野に逃れる。
        〃  5日 信長、安土城を出陣。
        〃  5日 信長、近江・柏原の上菩提院に宿泊。

        〃  6日 信長、信濃・高遠城主・仁科盛信の首実検をする。
        〃  7日 信長、降雨により岐阜城に逗留。
        〃  8日 信長、犬山に至る。
        〃  9日 信長、兼山に至る。
        〃 10日 信長、高野に至る。
        〃 11日 信長、岩村城に至る。
             武田勝頼、滝川一益・河尻秀隆の軍に攻められ、夫人・嫡男信勝と共に自刃し、果てる。
             (武田氏滅亡)。
        〃 13日 信長、信濃の根羽に移陣。
        〃 14日 信長、浪合に着陣。勝頼父子の首実検をする。
        〃 15日 信長、飯田に着陣。勝頼父子の首をさらす。
             その首は京に送られ、六条河原にさらされた。
        〃 17日 信長、大島を経て、飯田に着陣する。
        〃 18日 信長、高遠城に入る。
        〃 19日 信長、上諏訪の法華寺に至る。4月2日まで在陣する。
       4月 2日 信長、甲斐・大ヶ原に至る。
        〃  3日 信長、甲府に着陣。
       10日 信長、甲斐・右左口に至る。
       11日 信長、女坂を越え、本栖湖に泊まる。
       12日 信長、駿河・大宮(浅間神社)に着陣。
       13日 信長、駿河・江尻城に入る。
       14日 信長、駿河・田中城に泊まる。
       15日 信長、掛川に泊まる。
       16日 信長、家康の居城、浜松に入る
       17日 信長、吉田に泊まる。
       18日 信長、知立に宿泊。
       20日 信長、岐阜。
       21日 信長、安土に凱旋。
       5月 4日 朝廷、信長を征夷大将軍に推任するも、
信長、奉答せず。
        〃  7日 信長、三男・神戸信孝を、四国討伐軍の総大将に任命する。
             秀吉、備中・高松城を包囲し水攻めを始める。
       14日 家康、近江・番場に至り、丹羽長秀、これを饗応する。
             信忠、近江・番場に立ち寄り、安土に至る。
             信長、光秀に安土での家康の饗応役を命ずる。
       15日 家康、安土に到着する。
        15日 光秀、家康の饗応役を務める。
       16日 光秀、家康の饗応役を務める。
       17日 光秀、家康の饗応役を務める。
       17日
 備中の秀吉より、救援の使者が到着する。
       17日 信長、中国出陣を決める。
       17日 信長、明智光秀・細川忠興・池田信輝・塩川吉大夫・高山右近・中川瀬兵衛らに
       17日 中国出陣を命じる。
       17日 光秀、家康の饗応役を免ぜられ、近江・坂本城へ帰る。
       18日 光秀、坂本で過ごす。
       19日 信長、家康を饗応する(幸若大夫)。
       19日 光秀、坂本で過ごす。

       20日 信長、家康を饗応する(梅若大夫)。
       20日 光秀、坂本で過ごす。

       21日 家康、安土より上洛する、(上方見物=京都・大坂・奈良・堺)。
       21日 世話役は長谷川秀一。
       21日 信忠、これに
同行して上洛する(宿所=妙覚寺)。
       21日 光秀、坂本で過ごす。 
       22日 光秀、坂本で過ごす。

       23日 光秀、坂本で過ごす。
       24日 光秀、坂本で過ごす。
       25日 光秀、坂本で過ごす。
        〃 26日 光秀、丹波・亀山城に入城。
        〃 27日 光秀、戦勝祈願のため、愛宕神社を参拝。
        〃 28日 光秀、愛宕山威徳院にて連歌会を催し(愛宕百韻)、この日のうちに亀山城に戻る。。
        〃 29日 信長、小姓衆2、30人召し連れ上洛し、本能寺に入る。
        29日 信孝、摂津・住吉に着陣する。
       
〃 29日 家康、堺に入る。
       
〃 29日 信忠、京に残る(宿所=妙覚寺)。
             光秀、鉄砲の玉薬(弾薬)など約百荷を西国に送る。
       6月 1日 信長、本能寺にて、公家衆の来訪を受ける。
             公家衆、信長の凱旋を祝す。
             家康、朝・今井宗久、昼・津田宗及、夜・松井友閑より、茶の湯の饗応を受ける。
             光秀、亀山城を夕刻に出立する。
       6月 2日 光秀、信長を本能寺に襲撃する。
             信長、自ら防戦するも、自害し果てる。
             光秀、信忠を二条御所に襲う。
             信忠、奮戦するもかなわず、自害し果てる。
             光秀、安土城に向かうが、山岡景友が、瀬田の唐橋を破却したため、渡れず、引き返す。
             光秀、近江・坂本城に入り、協力要請の書状を諸方に送る。
             光秀、美濃・野口城・西尾光教に、味方すべしとの書状を送る。
       6月 3日 光秀、近江平定のため、軍勢を派す。
       6月 4日 光秀、近江を平定する。
             光秀、筒井順慶と結ぶ。
             長宗我部元親の使者、鷺森本願寺に到着。
             秀吉は、この日までに、本能寺の変の知らせを受けていた。
             秀吉、毛利氏と講和を結ぶ。備中・高松城主・清水宗治、切腹する。
             家康、三河・岡崎城に帰還。
       6月 5日 光秀、安土城に入る。
             光秀、京極高次・阿閉貞征に近江・長浜城の攻撃を命ずる。
             光秀、近江・長浜城に斉藤利三を入れる。
             津田信澄、織田信孝・丹羽長秀らに、大阪城にて殺害される。
             秀吉、中川清秀に偽情報を伝える。「信長父子は無事」
             秀吉は、別途、近江・長浜までの連絡路を確保し、使者を行き来させている。
       6月 6日 秀吉、備中・高松を引き払う。
             秀吉、備前・沼城に到着。
             毛利の小早川隆景、備中との国境地域を固める。
       6月 7日 光秀、安土城にて勅使・吉田兼見を迎える。
             秀吉、洪水のために滞陣。
       6月 8日 光秀、坂本城に帰城。
             安藤守就、光秀に呼応し、稲葉良通と戦い敗死。
             秀吉、姫路城に到着。
             秀吉、細川藤孝と連絡をとる。
       6月 9日 光秀、上洛し、正親町天皇・誠仁親王に銀子各五百枚を献上。
                〃   五山・大徳寺に銀子各百枚を献上    〃 。
                〃   吉田兼見に銀子五十枚を進上。
             秀吉、明石に到達。
             秀吉の別働隊、淡路・州本城の菅平右衛門を攻撃する。
             秀吉、光秀の動きを高山右近より知らされる。
             義昭、自らを帰洛させる旨、吉川元春・小早川隆景に命令する。
             光秀、吉田兼見邸にて夕食。
             光秀、下鳥羽に出陣。
             光秀、細川藤孝に援軍要請の書状を送る。
       6月10日 光秀、洞ヶ峠に滞陣し、筒井順慶の出陣をうながす。
             秀吉、中川清秀に返書。「11日に兵庫・西宮に到着」
       6月11日 光秀、下鳥羽に帰陣。
             光秀、山城淀城を修復。
             光秀、藤田伝五を派し、筒井順慶を説得。順慶、拒否。
             秀吉、尼崎に到着。
       6月12日 本願寺・顕如と教如、父子の和解がなる。
             本願寺、使者を光秀に派す。
             光秀、紀州惣国一揆に出陣を依頼する。
             秀吉、丹波長秀・池田恒興らと戦評定する。
       6月13日 山崎の戦い。
             天王山をめぐり、前哨戦が始まる。
             秀吉、織田信孝に対面。
             秀吉軍と光秀軍が激突する。
             光秀、戦いに敗れ、山城・勝竜寺城に入る。
             光秀、山城・勝竜寺城を脱出し、近江・坂本城に向かう。
             光秀、小栗栖で土民により殺害される。
             義昭、毛利の乃美宗勝に、帰洛に協力すべく下命する。
       6月14日 秀吉、近江・三井寺に到着。
       6月15日 安土城天主、焼失。
             明智秀満、光秀の妻子を刺殺し、自害する。
             近江・坂本城落城。
       6月16日 秀吉・信孝、安土城に入る。
             秀吉、長浜城に入る。
             光秀の首と遺体が、本能寺の焼け跡の曝される。
       6月17日 義昭、長宗我部氏に帰洛に協力すべく下命する。
             斉藤利三、近江・堅田で捕えられ、六条川原で斬首。
       6月22日 京の粟田口に光秀・利三の首塚が築かれる。
       6月25日 秀吉・信孝、美濃・尾張に入り、光秀方の残党を掃討。
       6月27日 清須会議。
             信忠の子・三法師、信長の後継者となる。

       8月    十河存保、阿波中富川に長會我部元親と戦って大敗。
       9月    十河存保、勝瑞城を長會我部元親に陥落され、讃岐に逃亡。
     天正12年(1584年)
       6月    長會我部元親、讃岐十河存保を攻め陥す(長會我部氏の四国統一成る)。
     天正14年(1586年)
      12月    十河存保、豊後戸次川に島津氏と戦って敗死(讃岐三好氏滅ぶ)。