りんご植栽150年に寄せて

昭和49年りんご植栽100年記念式典において、当時のりんご協会青年部長の佐藤竹悦氏が「未来の2世紀はこれまでの1世紀以上の課題と困難がある。青年同志の強い結束のもとで勇気と情熱をもって第2世紀に踏み出す」と宣言してから令和6年が50年になる。

まさしく課題と困難の半世紀であった。新年にあたり少しだけ思い出してみたい。

〇農村、園地、生産量

りんこ農家は大きく減少した。センサスによると昭和50年は3万5千戸。令和2年は1万1千戸。3分の1以下になっている。統計を持ち出すまでもない。周りを見渡すと、集落の大部分がりんご農家であったが、今はかなり少なくなっている。りんご地帯はまだ限界集落ではないと思うが、近い将来問題も起きる。

当然りんご園の面積も減少している。しかし農家戸数の減少ほど極端ではない。昭和49年は2万5千ha。昭和年間は横ばいから微増していたが、平成以降は漸減して令和2年は2ha。減少率は80%である。ちなみに全国的にはもっと減少比率が高く全国の減少は64%である。必然的に本県のシェアは高まり、昭和49年は45%であったが、令和2年では57%である。

生産量は自然条件により増減するので傾向を見るために3年間の平年値をだした。昭和49、50、51年の平均値は43万t。平成30、令和1、2年の44万t。この期間で最も生産が多かったのは昭和63、平成1、2年で50万tである。

このようにして見ると、農家戸数は大きく減少したが、りんご面積は微減であり、生産量は維持している。ここに半世紀のりんご生産者の頑張りと生産技術の発展が見える。

〇販売額、産出額

りんご産業や生産者にとって、もっとも大事な事は販売額と産出額である。本県りんごは1千億産業と言われるが1千億円の販売があっあったのは平成の前半と近年である。

前述のごとく平均値で比較してみた。百年の記念式典の当時は730億円くらいである。昭和63、平成1,2年の平均は1071億円。平成30、令和1,2年平均は1034億円である。とくに近年は9年連続1千億円超えている。

りんご産業は本県の経済に大きな貢献をしているものと関係者一同胸を張っても良いだろう。

近年は産出額が増大している。平成前期の1千億円の時代には、必ずしも生産者には高揚感がなかった。その原因は産出額が約600億円くらいで決して高いとは言えない。

しかし近年はこの産出額が上昇している。800億円前後で推移している。特に令和4年には初めて1千億円を超えた。少なくなった農家で、この産出額を稼ぎ出している。ただ手放しで喜べるほどでない。何よりもコストの上昇と生活費の高騰が生産者を苦しめている。。

〇品種構成

昭和43年の山川市場の出現により、本県は総力を挙げて品種更新に取り組んだ。昭和49年ころは1段落した時であった。その時の第一の品種はデリシャス系であった。特に着色管理が容易だということで、多くの生産者が取り組んだ。

昭和50年代になったころから、デリシャス系に度々問題が起きた。幼果期の異常落果、収穫前落果、貯蔵中の軟質などである。着色系統やスパータイプの導入も完熟しないデリシャス系を出荷する一因となった。昭和58年全国的な豊作が引き金となって、デリシャス系の価格が暴落して、この価格では再生産もできないという声が起こった。幸いふじはそれなりの価格で取引されていたので、ふじに更新され現在のふじ一辺倒の品種構成になった。

ふじ一辺倒で良いのかという疑問は、多くの識者からも指摘されている。様々な品種が出現し、ふじの補完的な役割を果たすような品種になるのでないかと期待したものもあったが、なかなか定着しない。りんご2世紀に向けて次の時代の品種が出現することを願う。

〇生産体系

生産体系で最大の問題は病害虫と農薬の変遷である。県条例まで制定して取り組んだクロホシ病とフラン病の蔓延は止めることができなかった。フラン病は明治時代に一度は封じ込めたと思っていた病害である。それなのに完璧な防除法が確立されない現状を残念に思う。

クロホシ病は40年前半に本県にも侵入した。なんとして封じ込めたいと官民挙げて取り組んだが、定着してしまった。完璧に防除したと思ってもどこかに潜んで、何かの機会に再発する。病害対策の面倒さである。

様々な昆虫も猛威を振るった。それでも生産者は常に対策を施し暴発とはいかない状態で対処してきた。

その中で農薬も大きな変化を遂げた。主力の農薬だったボルドー液がほぼ散布されなくなった。薬剤に起因した問題で広範囲な薬害が発生したことも、無登録農薬の騒ぎもあった。それらも生産者の努力とメーカーの適切な対処で解決された。ただ近年のクロホシ病の耐性菌の出現は青天の霹靂だった。大変なことだと思ったが、生産者の対処と適切な指導により切り抜けた。ここには本県生産者の底力を感ずる。

無袋栽培やわい化栽培もこの半世紀で大きな変化を遂げた。決して完璧でない。いまだに完成されていない技術である。今後も生産者は様々な取り組みをしていくだろう。

〇自然災害

自然から恵みを受けているりんごは時折自然の悪戯に合う。

台風などの強風、豪雨による河川の氾濫。降雹。降霜、統計には表れないが鳥獣害など県内のどこかで毎年のように災害が発生している。様々な支援を受けながらも生産者は立ち上がってきた。

とくに平成3年の大台風は落果34tという未曽有の大被害をもたらした。倒伏樹も多かった。この復旧にかなりの年数がかかると覚悟をしたが、行政の素早い立ち上がりと社会からの多額の援助や励ましがあり平成4年には48tまで回復している。この時の報道はりんご農家を救うべきだという論調が多くありがたかった。

〇行政の取り組み

この半世紀における行政の取り組みは必ずしも一定ではなかった。厚遇してくれたこともあったし冷淡な時もあった。

平成4年から始まった、輸入解禁の動きには憤りを感じた。自由化は昭和46年に決定されている。その時に名目上の自由化で、植物防疫法によって我が国に輸入されることはないと説明されて安心していた。何の対策も対処の方法も議論されることはなかった。その意味では愚かだったと反省しなければならない。

突如として指定されている病害虫は、完全に撲滅できるとしてニュージーランドから解禁するとのことだった。その後の学習を重ね侵入病害虫の怖さを学んだ。島国である我が国の生産環境を守るためにと反対運動が盛り上がったが、すでに決定したことだとして解禁された。その後アメリカ、豪州タスマニア、フランスからと次々と解禁された。現実に近年になって隣国の中国、韓国に火傷病が侵入して防除に苦慮しているとの情報がある。輸入によるだけでなく、何らかのミスでも我が国に侵入してくることがないような対策が急務である。

グローバル化対策の一貫として、りんご園若返りの必要性を訴え、政府も県も一緒になって若返りのための事業が展開された。このような事業は期限が有期であることが多いが、いろいろと形を変えて継続している。

若返った園地で生産力を上げ、日本型りんごの供給を安定的することこそ、生産者の責務である。

〇終わりに

様々な問題も本県生産者は果敢に対処してきた。これが150年続いたりんご生産の原動力である。今は全国の約60%を有するりんご王国である。またすべての果樹を合算しても本県は日本一の果樹産地である。まさに全国の果樹生産地の原動力として頑張る責任がある。

蛇足であるが、このような歴史は西暦のほうが判りやすいと思う。特別な意味はないと思うが和暦年号の変わり目の時にりんご産業は大きな変化を起こしている。そこで和暦を使用すると時代感覚と合致すると思った。