『少年とトンボ』画像は風柳景生さんからの提供です。
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風柳景生のホームページ『真夜中の外灯』

幼少の頃、小、中学生、そして青春時代と、人には自分を支えてくれた人達、胸を焦がし憧れた女(ひと)など、決して忘れ得ぬ人々がいる。                                                                                       



 ジジーと発車のベルが鳴った。 見送りにきた私たちと和やかに話ていた先生は、ハットと思いつめたような顔で遠くを見つめた。 走り始めた汽車がしだいにホームを離れていくと、先生の目からは涙が溢れ、その美しい頬を伝った。 車窓から身を乗り出した先生の真剣な視線は、私達の後ろで見送っていた男先生に注がれていた。 必死で白いハンカチを振る先生の姿は、しだいに小さくなり、やがて見えなくなってしまった。 さよなら・・・・美しく、やさしかった先生。 あの時、後ろで見送っていた男先生が先生の初恋の人だったのですか。
 私が小学2年の時、担任の女先生が病気で入院され、代わって赴任してきたのが先生でした。 先生は学校を卒業されてまもないようで、まだとても若く、田舎町には相応しくない程、色白で都会的 な顔立ちの美人でした。 先生の下宿が、すぐ近くの幼なじみの家の2階でしたので、私は、同級生を誘い、毎日のように遊びに いったものです。 先生は、自分の小遣いで、お菓子、果物を買ってきては、ゲーム等しながら遊んでくれました。まだ 白黒テレビもない時代でしたので、相手が考えている言葉を質問して当てる『10の扉』などの言葉遊 びや、いろんなトランプゲームも教えてくれました。時々は、表に出て、かくれんぼや缶踏み等、自分 でも子供のように無邪気になりながら、一緒に遊んでくれたものです。担任とはいえ、自分の時間もほ しかっただろうに、毎日のように押しかける無遠慮で礼儀を知らない私達をいつも快く迎え入れてくれ たのです。
    
(前列中央のナイーブな顔の少年が当時の私です。)
 先生は教育にもとても熱心でした。時間を見ては、毎日、算数ドリルを出していました。最初、私に とって泣くほどいやだった算数のドリルも先生に誉められる度に、少しずつ早く解け、丸の数も多くな っていきました。理科では、夕日が沈む位置を毎日観察、記入させ、指導してくれたものです。学校の 窓から見た山陰に沈む、真っ赤な夕日は、いまでも鮮やかに思い出されます。でもこんなやさしい先生 でも、戦後間もないこともあってか、しつけに対しては大変厳しい一面がありました。宿題をやってこ ない生徒には、教室の柱に自分の額を打ち付ける罰が待っていましたし、それが度重なると、先生自身 の手で強制的に罰が執行されました。後に、先輩卒業生の寄せ書きに『父母の恩は山より高く、愛は海 より深い』と先生が書かれていましたので、なるほどと思いました。当時としては、女先生でも柱に生 徒の額を打ち付ける事ぐらいは、極、当たり前のことでした。体罰を受けたことを家で父母に話すもの らば『悪いことをしたらもっと厳しい体罰を与えてください。』と逆に先生にお願いするような、そん な親達ばかりでしたから。
 私は、小学校に入学まもなく海水浴が原因で、体中できものができ、祖父と共に山間の温泉地で湯治 することになり、やもえずで3ヶ月くらい休学しました。その影響もあり、勉学は少し遅れ気味で、2 年生での成績は、やっと平均に追いついた程度でした。そんな私にとって、一緒に遊んでくれる先生の 授業は、とても楽しいものでした。
       
 ある日、教室の壁に夏休みの絵を貼るので手伝ってくれと先生に言われ、放課後、一人、教室に残さ れました。楽しげに、生徒が書いた絵の批評等をしながら、小柄な先生は踏み台の上に上がり、絵を貼 り始めました。学級全員の作品を貼るため、絵は教室の後ろ壁いっぱいになり、とうとう、先生は、『 しっかり押さえてね。』と、私の身長程もあった踏み台の一番上まで上がりました。私は、先生に怪我 をさせてはいけないと、力いっぱい踏み台を押さえました。上から先生の『もう少しだから頑張ってね。 』とはずんだ声が降ってきました。そして、私は、ふと、上を見上げました。次の瞬間、私はハットし、 急にうつむいてしまいました。『夏休み何度、海で泳いだの』と、先生は上から話し掛けましたが、私 は、ただ、『ウーン、ウーン』と、うつむいたまま生返事をするだけでした。絵を貼り終わった先生は 踏み台から降り、『ありがとう、じゃ気ををつけて帰ってね。』と言いましたが、私は、まともに先生 の顔を見ることはできず、赤面し、ずーと、うつむいたままでした。上を見上げた時、先生のスカート の中が見えてしまったのです。私は、この時、初めて、先生に大人の女性を意識したのです。
 ちょうど年頃で美しく、知性も豊かな先生でしたので、おませな女生徒達の間で、男先生との仲が噂 になり、先生は、校長にまで呼ばれたようです。先生は、この女生徒を放課後呼び、噂の根拠を詰問し ていました。噂をまいたおませな女生徒は、先生の真剣で、こわいような顔に、とうとう泣き出してし まいました。男先生には、前から別な女先生との噂がありましたので、潔癖性の先生には『たわいない 噂』と聞き流しておくことはできなかったのでしょう。噂を立てられ程、先生は、田舎町には似合わない、 あかぬけした美人だったのです。  3年後、先生との別れがやってきました。病気の先生が復職され、先生が転勤することになったので す。私たちは、4年生になっていましたが、先生を慕う元、3年1組の生徒達は、引越しの手伝いに行 くことになりました。私達が行くと先生は、薄っすらと化粧をし、鏡の前で髪をすくっていました。 先生は、女生徒だけで、部屋の掃除や引越し荷物を整理し、男生徒は外に締め出されてしまいました。 私が不平を言うと、『掃除が終わってから入りなさい。』と、きつい口調で言いました。男と女の事情 の違いも分からなかった私は、仲間はずれにされたと思ったのです。
 その後、数年たち、転勤先で先生同士で結婚されたとの噂を聞きました。 あの駅のホームでの見送り以来、ただの一度も先生には、お会いすることがありませんでした。 今、年月を経て、セピア色になってしまった写真を見て、先生は、やさしそうで、とても都会的な顔立 ちの美人だったと思います。あの頃先生は、女学校を卒業されたばかりで、まだ20代初めの頃だった のですね。清楚で、何事にも真剣であった先生、ちょと頬に憂いを含んでいた先生、私が憧れた先生は 写真の中では、まだそのままです。  いつの時代でも若い人がいて、いろんな出会いがあり、たくさんの想い出を残し、そして、いつしか 青春の表舞台から消え去っていくのですね。
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