(背景は今別町袰月海岸)



 春の桜見物、夏の海辺での家族キャンプ、秋の紅葉狩り等、若い方に限らず、旅行が一番の楽しみという方が多くなりましたが、私も若い頃、友人とテント、寝袋を背負って、2週間程北海道旅行したことがあります。洞爺、支笏、屈斜路、網走、サロマ湖等、湖畔にキャンプしながらの湖巡りでした。
 旅行が好きな方、十和田湖観光等で青森県を訪れた際は、もう少し足を伸ばし、津軽国定公園を周遊してみてはどうでしょうか。津軽一帯のことは太宰治の紀行文的小説『津軽』で紹介されています。小説が書かれてから50年以上経ちますので、小説に出てくるような情景には出会えないかも知れませんが、それでもきっと、心に残る思い出になるかと思います。
『津軽』の本編では、上野から夜行列車で14時間以上かけ到着した青森市から、太宰がバスで蟹田に向かうところから始まっていますので、太宰と同じ足どりで津軽を紹介していきます。






 太宰が中学時代の唯一の友人と言い切り、初期の作品『思い出』に出てくる友人N氏の故郷『蟹田』は、私が生まれ、現在も住んでいる故郷でもあります。N氏は中村貞次郎という方で、私が中学生の頃まで、ご健在で、夏休み等には、県内外の太宰ファンが訪ねて来ていました。

太宰は、『津軽』の中で、友人N氏のことを、のんきで、人に騙されても暗く卑屈にならないのは自分とは違うといっていますが、津軽を旅した後に発表した『斜陽』、『人間失格』等を読みますと、人に騙され卑屈になり、ついには自殺に負い込まれる自分の運命を暗示しているかのような一節であります。
 太宰は、蟹田町のことを人口5千をはるかに超える外ケ浜では最も大きな部落(?)と紹介していますが、昭和40年代を境に過疎化が進み、最盛期7千以上であった人口も、いまでは4千程度になってしまいました。


蟹田の名勝 鍛冶屋の一本松
推定樹齢600年



 太宰が津軽を取材旅行したのは1944年(昭和19年)5月中旬から6月初旬で、丁度、蟹田の名物毛蟹のシーズンでもありましたので、お膳に小山のように積み上げられた毛蟹で歓待されたことが書かれています。しかし、酒豪でもあった太宰が紹介しているリンゴ酒については、今でも下戸の私には飲んだ記憶はありません。食べ物の紹介で、太宰が疾風怒濤のようにと表現している蟹田分院事務長S氏が、妻に、やつぎばやに食べさせろと命じた食べ物の中にカヤキ(ケヤギ:貝焼き)のことが述べられています。これは、直径20センチメートル以上の天然ホタテ貝の貝殻の上で焼いた卵味噌のことです。私も中学生頃までは好んで食べましたが、ジンマシンになってからは遠慮しています。最近では、養殖ホタテになり、天然の大きなホタテ貝が採れなくなったため、食べさせてくれるお店は殆どありません。

    

タイ、シマダイ、カサゴ、メバル
ウマズラハギ、シマゾイ、カレイ
私が水槽で飼っていた湾内の
魚達です


干鱈(ひだらと振り仮名しているが、ほしだらのこと)についても述べていますが、真冬の旧正月頃とれる湾内の大きな鱈は、重く、持って歩けないため、縄で縛り雪の上を引きずって運んだものだそうです。太宰が、リヤカーに一杯積んだ魚を小母さんが怒っているような大声で叫んで売り歩いている述べている風景も、早朝船着き場から直接トラック輸送で青森の市場に出荷されるようになり、もう見られなくなりました。私の祖父は漁が好きで、私も幼少の頃、地引き網にかかった生きた小魚を貰い、たらいの中で泳ぐカレイ、カワハギ、エビ等を飽きずながめていました。電気屋でなければ、きっと漁師になっていたかも。





 太宰は、蟹田を昔からの砂鉄の産地と紹介していますが、今も海岸には、黒い砂鉄が白い砂に混じって堆積しています。中学時代、理科の先生に磁石の実験用にと採取を頼まれたのを、うっかり忘れ、校庭の砂場からのもので間に合わせたことを思い出します。
太宰も登り、むつ湾や下北半島を展望した観瀾山は、町外れの海岸に面した40メートル(太宰は100メートル足らずと表現している。)足らずの小山です。彼は、むつ湾の海をひどく温和で水の色も淡いと表現していますが、きっと、当日は凪の良い絶好の天候であったのでしょう。



対岸は下北半島でも最も海抜の低い丘陵地帯なので、偏東風(やませ)が酷く、真夏の8月でも暖房が必要になる日もあるくらいなのです。観瀾山には太宰碑が建っています。その碑面には、『かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった!』と、『正義と微笑』の中の一句が佐藤春夫氏の筆跡で刻まれています。




観瀾山と新名所トップマスト


昭和31年8月6日の除幕式には、女優、壇ふみの父、作家の檀一雄氏も招かれ、小説『火宅の人』の中には、除幕式の様子が書かれているそうです。(私はまだ読んでいない。)


 
太宰碑の前で無邪気に遊ぶ子供達







    虹立ちて、鴎群れ飛ぶ
        みちのくの海の青さよ
                錦石、彩を愛ずれば
                       外ケ浜、昔懐かし
           (中略)
    何よりも人喜ばす
        碑(いしぶみ)の清き言の葉

この美しい外ケ浜の情景を詠った詩は、私の母校、蟹田中学校の校歌です。
(^^;;





 蟹田町は、『津軽』での太宰の独り言『蟹田ってのは、風の町だね』を観光のキャッチフレーズにし、和太鼓の風太鼓を創設し、海水浴場にもウインドサーフィンなどの設備を設けています。さらに風に因んで、以前から盛んであった川柳を地域だけの文芸活動に止めず、題を『風』とし、全国から作品を募集しています。全国的に有名になったこのイベントには、北海道から沖縄、さらにドイツ、オーストリアから5千人以上、1万5千句もの応募があるそうです。風のまち川柳大賞に選ばれた方は、旅費が支給された上、観瀾山に建立される自分の句碑の除幕式に出席できます。第7回目を迎えた風物語と題した応募句集から大賞になった川柳をご紹介いたしましょう。





       第1回大賞
                 口笛がやがて大きな風となる   
                                 岩手県盛岡市:高橋真紀
       第2回大賞
                 さびしくて風もときどき樹をゆする
                                 岩手県宮古市:盛合秋水

       第3回大賞
                 ふるさとに待たせたままの風がある
                                 福岡市宗像市:原田都子
                (故郷を離れている人には、おもわず涙が出てきそうな、郷愁を感じ
                           させる句で、私が一番気にいっている句です)




       第4回大賞
                 大声のかあちゃんがいる風の町
                                 宮城県柴田郡大河原町:蔦作太郎

       第5回大賞
                 茄子の馬 風がふわりと来て座る
                                 長野県生坂村:藤澤三春

       第6回大賞
                 働いてくれる鉢巻きした風だ
                                 青森県八戸市:西山金悦


 一人3句まで応募できますし、応募者全員の句集が実費(500円)で渡されますので、興味のある方は、是非、応募してみてください。






観瀾山の下の海岸は、町が県内最大規模と自慢する、良く整備された海水浴場、キャンプ場があり、シーズンともなりますと、青森市等からの大勢の海水浴客で交通渋滞になる程混雑します。7月上旬には、若者の人気スポーツ、ボートセイリング大会も開催されています。




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 海水浴場に隣接したフェリー発着場からは、対岸の脇野沢まで『かもしか号』が往復しています。片道1時間ですので仏ケ浦観光に利用されると便利です。この『かもしか号』は、2代目で、平成10年4月15日、新造船として就航しました。初代の『かもしか号』は、かって瀬戸内海に就航していた『オリンピア号』で、相当な艦歴のため、平成9年度限りで引退することになりました。
 むつ湾の海岸一帯は、昔から外ケ浜と呼ばれ、その路は松前街道と呼ばれています。なんと、旅情をかきたてるような優美な響きでしょうか。でも、地元では、別な言葉『上磯』と呼んでいるのが普通です。青森市の方は、蟹田地方を多少蔑視を込めて上磯と呼んでいるみたいですが、蟹田の人も蟹田以北を上磯と呼んでいますので、どこから上磯なのか定かではないようです。





 太宰一行は、荒天で欠航した定期船に代え、バスで蟹田から今別に到着し、ここから1時間ほど徒歩で、三厩村に着き、ここで1泊、翌日、3時間程、海岸に沿うた細い道を通り、龍飛に到着しています。
彼らは途中、今別の本覚寺、三厩の義経寺を訪れ他は、厩石を通り過ぎただけで、『津軽』では、途中の風光明媚な観光地は紹介していませんので、私から補足し、ご紹介いたします。





 蟹田町を海岸沿に北上し、車で15分程すると平舘村に入ります。津軽国定公園は、この平舘から始まります。蟹田から平舘までの海岸地帯は遠浅の砂浜ですが、ここを過ぎると、海岸は、突然、海に岩場が食い込み、奇岩、怪石が屹立する荒々しい風景に変わります。
平館村に入ると、直ぐ、道の両側に松並木が見えてきます。まことに松前街道の名に相応しい風景で、300年前に植樹されたものが一部だけ現存しているとのことです。松並木と海岸の間には、灯台がある他、藩政時代、海岸防備のため洋式砲台が据え付けられた跡が、お台場として残っています。ここの海岸は遠浅で、海水浴もできますし、キャンプ場も最近整備されたばかりで、炊事場、トイレ、休憩所も真新しい上、まだ、あまり一般には知られていないので、お薦めの穴場です。






 平舘からさらに、10分足らずで、今別の高野崎に到着します。この一帯は、袰月海岸と呼ばれ、柱状節理の断崖や岩礁美が続く景勝地となっています。
むつ湾が最も狭まったところで、対岸の仏ケ浦の景観を眺めることもできますし、晴れた日は、北海道の島影も見えます。方言詩人として、その作品は英訳されるほど評価が高い、青森市出身の高木恭造が小学校の代用教員をしていたところで、彼は、その代表的作品『まるめろ』の中で、袰月のことを陽(し)コあだね村(陽が当たらない村:恵みを受けることもない寂れた村)と詠んでいます。ここもキャンプ場が完備されていますし、釣りの好きな方は、岩場で大物も狙えます。








 ここから15分足らずで、三厩村に至ります。道路脇に3つの洞門がある大きな岩、厩石がありますが、平泉から海路、八戸に上陸した義経主従が、青森市野内から、この地に至り、この岩の上で観音に三日三晩祈願したところ、翌日、3匹の龍馬がこの洞窟に繋がれていて、主従達は無事蝦夷地に渡ったということです。青函トンネル工事により生じたズリ(掘削した岩石)により、海面が埋め立てされ、新しい道路が通されたために現在、厩石は、道路沿いにありますが、ごく最近まで、しぶきが打ち寄せる波打ち際にあったのです。


     

 さらに北上すると、国道は洞門を通ることになります。この洞門は13個所あったのですが、車がやっと通れるくらいの狭さでしたので、青函トンネル工事を機会に拡幅や道路の経路変更がされ、現在、残っているもは3個所だけになってしまいました。古くからの洞門も大正12年、膨大なアワビの収益で開削したものと言うことで、その前は海岸の岩場を飛び越えたり、断崖をよじ登ったりの極めて危険な行程だったということです。ここから10分程で龍飛崎にいたります。


龍飛崎 帯島

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太宰が『津軽』の中で『路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に鶏小屋に頭を突っ込んだ。』と名文で表現したように、旅行者は、道路が途切れ、民家の庭にたどりつく不思議な一瞬を感じることになります。この道路が途切れる所には、この『津軽』の中の有名な一節が刻まれた碑文が建っています。『ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも、さかのぼり行けば、必ずこの外ケ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く盡きるのである。』






龍飛崎の脇道に全国でもここだけと言う階段国道があります。民家の軒先を通り、龍飛崎頂上にいたる階段の道路です。今は立派に整備され、人が楽に、すれ違い出来ますが、最近まで、人がやっと通れるだけの山道のような道路で、人専用の間道として利用されていたものでしたが、昭和49年、村が地図に記入し、国道昇格の申請をしたところ、審査官が現地を確認しないまま認可を与えてしまったのだということです。さぞかし太い線で地図に記入したのでしょね。それとも新しい観光名所をつくるための策略であったのでしょうか。(^^;;






 龍飛崎は国際海峡、津軽海峡を控え、古くから国防上の要衝の地で、幕末の思想家で、高杉晋作、伊藤博文を育て、軍事情勢にも明るかった吉田松陰もここを訪れています。
崎の突端には、海上自衛隊のレーダ、ソーナ基地がありますし、ごく最近まで、ソ連の艦隊や原子力戦略潜水艦の通過を監視するため、アメリカの将校が務めているとの噂がありました。 ソ連が崩壊し、冷戦が終結した現在でも、オホーツク海からアメリカ本土を直接攻撃できる原子力潜水艦は大きな脅威で、陸上の戦略ミサイル削減交渉が成立、実施された今でも、ロシア、アメリカ共、原子力潜水艦の温存を図っているようですので、戦略上の重要性は、まだ薄れていないようです。


龍飛崎 街並みが見えるほど対岸の北海道がま近に見えます。(クリックで大きな画像が見れます。)






 龍飛といえば、また北海道、本州を結ぶ世界最長の海底トンネル、青函トンネル(専門用語では、ずい道)が有名ですね。全長53.85Kmの海底トンネルは、本州、北海道共、一部が陸上トンネルで、海底部分は23kmだということです。英仏のドーバー海峡トンネル(ユーロートンネル)に距離で追い抜かれないため、意識的にトンネル全長を長くしたのです。本州側の入り口は、今別町浜名にあります。私も青函トンネルが本格着工になった昭和49年以降は、工事用の特高変電所2個所の建設に従事したり、坑内の電気室自動化のため、三厩に滞在したものでした。現在、工事の跡地には、記念館も建設され、当時の作業坑まで人車(作業員を海底部まで上げ下げするワイヤー駆動の車両)で降りることができ、体験坑道では工事方法パネル、工事機械等が展示され、当時の工事現場の雰囲気が味わえるようになっています。


     



 また、龍飛崎は、その地名のように(龍が飛ばされる)年平均風速が10メートル以上ということで、新しいエネルギー開発の試みである風力発電の実験基地でもあります。東北電力がNEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)の支援で、平成4年275KWを5台、次いで平成7年300KWを5台設置し、実際、66KV送電線と連携し、実用化に向けデーターを収集しています。青函トンネル記念館に隣接した場所にウィンドパーク展示館がありますので、是非立ち寄り、エネルギー開発の現状を勉強していって下さい。








龍飛崎から風力発電機を真近に見上げ、急坂な龍泊ラインを下り、日本海に面した海岸線を南下していけば、小泊に至ります。この権現崎を中心とした海岸線も断崖絶壁が海に突き出たみごとな景観です。特に、日本海に沈む夕日は、忘れられない旅情を与えてくれるでしょう。










小泊は、太宰を3歳から8歳まで子守りし育てた越野たけ(旧姓:近村)の婚家があるところです。彼女が太宰の子守りを始めたのは14歳の時であったといいますから、小説の中の30年ぶりの再会は、しばらく口が利けないほどこみ上げてくるものがあったようです。たけの『まあ、よく来たな、おまえの家に奉公に行った時には、おまえは、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には、茶碗を持ってあちこち歩きまわって、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとっくと見ながら一匙(さじ)づつ養(あずが)はせて、手かずもかかったが、愛(め)ごくてなう、…』という言葉は、無心で、あどけない修治に対する育ての親としての愛情が滲み出て、自分の子供達の幼かった頃のことを思い出してしまいました。





衆議院、貴族院議員を歴任した県下有数の富豪、父、源右衛門の6男、オジカス(オンチャマ:跡継ぎの長男以外の次男坊以下(オジ)は、男のカス(クズ)と言われた。)として生まれ、子守り、下男、下女等の粗野で無遠慮ではあるが、強い愛情表現に接して育った太宰は、格式の高い肉親を嫌い、彼らとの再会の旅で、本当の心の安らぎを覚えたのでしょう。太宰は津軽人の特徴として、普段は、はにかみやで、繊細で優雅な思いやりを持っているのであるが、堰を切ったような過渡な愛情表現は、水で薄めて服用しなければ他国の人には(理解が)無理なところがあるかもしれないと言い、表面的な付き合いしかしない軽薄な都会人に蔑視される所以であるとも述べています。




 太宰達は龍飛から徒歩で三厩に戻り、ここからバスで蟹田に着き、定期船を利用し、青森まで戻っています。定期船のことは、私が小学生頃まで船着き場があったことは、かすかに覚えています。彼は、青森から奥羽線、津軽鉄道経由で故郷、金木に着き、そして、五所川原、木造(きづくり)、鯵ヶ沢、深浦の五能線沿線の町を紹介し、再び、五所川原に戻り、さらに、この旅の一番の目的だった越野たけに会うため、バスで中里から小泊に出発するのでした。
 青森のウェストコースト(西海岸)も深浦周辺の千畳敷海岸等すばらしい景観が続くのですが、紹介はまたの機会にし、太宰の足あとをたどった私の津軽観光案内は、これで終わります。

さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。




フェリー、人車の時刻表、連絡先電話、関連リンクなど入れておきました。

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