フランス時代 IN FRANCE



 1917年暮れ、命からがらフランスまでたどり着いた工藤富治であったが、それからどのようにしてドヴォワティーヌと再会を果たしたのか。世界はまだ第一次大戦のさなかであった。ともかくも工藤はトゥールーズに行きラテコエールでサルムソン機の製作に従事することとなる。これは、一足先にロシアから逃れてきたドヴォワティーヌもまたこの会社に入っていて工藤富治を勧誘したものと考えるのが自然である。

サルムソン機の前で(中央、プロペラの下が工藤富治)
In front of Salmson2A2(Center,Tomiji Kudo )

         1918年 トゥールーズにおいて 左 工藤富治、少女とひげの人物は不明。
        At Toulouse in 1918. Left Tomiji Kudo. A girl and a bearded man it is
        unknown who they were. 

 1920年7月、ドヴォワティーヌはラテコエール社を退職し自分の会社を興す。当初事務所だけのスタートであったが翌1921年トゥールーズ市内パスツール地区に工場を取得、実際に飛行機製作を行っていく。
  工藤もこれに参画する。文献(ドヴォワティーヌ伝記)に、「ロシアで別れてから4年後に工藤を工場主任として採用した。」とあるのはこのことであろう。

 ドヴォワティーヌ社のデビュー作はC1D1である。この飛行機の初飛行は1922年11月18日、パイロットはジョルジュ・バルボ Georges Barbot 場所はスペイン国境ピレネー山脈近くのポー飛行場 Pau-Pont Long であった。
 この飛行機は当時としては画期的な全金属製機体で0.5mmのジュラルミン板を加工して成形されている。三菱商事リヨン支社久我貞三郎氏により日本にも1機輸入され、若き日の木村秀政先生、佐貫亦男先生にも大きな感銘を与えている。

ドヴォワティーヌC1D1戦闘機:書き込みは工藤富治自筆「大正11年(1922年)12月仏国陸軍ポー飛行場において試験、最大速力1時間六十五里、高度三万三千尺」とある。
DEWOITINE C1D1 chasseurs: Tomiji Kudo himself wrote "December,1922 test fright at Pau airport of French army, Maximum speed 260km/h, Altitude 9990m.

 左から、三菱名古屋製作所技師:手島八百吉、ドヴォワティーヌ、三菱パリ・リヨン支店長:久我貞三郎、工藤富治
Left to right, Yaokichi Tejima:Mitsubishi, Dewoitine, Teizaburo Kuga:Mitsubishi, Tomiji Kudo

私(工藤和彦)は、2000年5月フランス トゥールーズ市を訪問した。

 ドヴォワティーヌ工場のあった通りはかつて「パスツール通り」と呼ばれていたが
 現在、「ドヴォワティーヌ通り」となっている。
 AVENUE EMILE DEWOITINE, it was called "boulevard Pasteur" before 1980.
Along this street, there was the factory of Dewoitine.



工藤富治の住居
書簡等に記された工藤富治の住所にあった建物
たぶん当時のままであろうと思われる。
The house Tomiji Kudo lived.
Adress: 66,rue des 36 ponts
photo:Jean Pierre (Special thanks!)

 C1D1戦闘機で華々しくデビューを飾ったドヴォワティーヌ社であったが、再び世界の表舞台に踊り出たのがD33「トレ・デュニオン号」であった。これはフランス政府が世界記録を狙う長距離機を各メーカーに競作させたものである。
 まず、ブレリオ110が1931年2月に8,822kmの世界記録樹立、わずか1ヶ月後ベルナール80GRが8,960kmを飛びブレリオの記録を破る。いよいよドヴォワティーヌはその3ヶ月後の同年6月10,372kmを飛び初めて1万キロを突破したのである。

左:飛行する「トレ・デュニオン」 書き込みはパイロット ルブリの自筆「記録樹立を我らが友クドーに感謝する 」という内容
Left: Flying "Trait d'Union" Le Brix Wrote for Kudo by himself
右:「トレ・デュニオン」の前のパイロットのルブリとドレー 書き込みはルブリ「我らが友クドーへ良き記念に」
Right: Le Brix(left) and Doret in front of "Trait d'Union" Le Brix wrote for Kudo by himself

 周回航続距離で世界記録を達成したルブリらは間髪を入れず、1931年7月パリー東京無着陸飛行に挑戦する。東京に着いたら再整備し、一気に太平洋横断に挑戦する予定だった。そのため東京駐在員として工藤富治が派遣された。工藤富治はシベリア鉄道で東京に向かった。

 しかし、機はバイカル湖手前まできたところでエンジントラブルのため不時着してしまった。
 ハルピン駅でこのニュースに接した工藤富治の談話が東京日日新聞(昭和6年7月16日)に報じられていた。
「壮途中で挫折したトレー・ヂュニオン号のかくれた製作者工藤富治氏は十五日朝ハルビン通過帰朝を急いでいた、氏はハルビン駅頭に降り記者の顔を見るや否や『トレー・ヂュニオンはパスしましたか』とまるでわが子の入学試験を案ずる心と同じだ、記者から遭難をきいた氏は『ほんとうですか』としばし黙然・・・憂いに沈みつつ『三人(パイロットのルブリら)の技量は世界無比、あの機械も私の身命を賭した世界最新能力のものと信じているのに・・・トレー・ヂュニオンは凡ての機能が創作だから製作には何年かかったか判らぬ、政府がパリ東京無着陸機の製作を命じ各工場が競ったがトレー・ヂュニオンがそれに合格した、完成まで一度も失敗がなかったのに』と残念がった、ともかくその後の情報を列車へ打電方記者に依頼して『都合ではバックします』と語りつつ南下した」

 このときルブリ、ドレーらは無事だったので、同型のトレ・デュニオン2世号で再挑戦することとなった。
9月再びパリを飛び立ったが、今度はウラル山中に墜落。パイロットのドレーはパラシュートで脱出したもののルブリと機関士のメスマンは機と運命をともにしたのである。

 計画は失敗に終わったが工藤富治は15年ぶりに日本に帰国を果たした。そしてこれを機にドヴォワティーヌ社を辞し日本に帰ってきた。