1917年3月9日ペトログラードの「パンよこせデモ」から二月革命が進展していく。3月15日ニコライ二世退位、ここに帝政ロシアは終焉を迎える。3月17日にはウクライナにも統一戦線が成立、工藤らのもとにも革命の余波が及んでいく
シンフェロポルの工場でも工員達がほとんど逃げてしまい操業ができなくなった。
ドヴォワティーヌはいち早くフランスに戻ることを決断した。工藤はもう少しとどまって様子をみることにした。出発直前ドヴォワティーヌは工藤に、フランスで会おうと約束し一枚の写真を渡した。
ドヴォワティーヌが工藤に渡した写真:大正6年(1917年)6月1日と書き付けがある。まさにドヴォワティーヌが脱出の旅に発とうという時に渡したものか。ドヴォワティーヌの書き付けもある。
A picture that Dewoitine handed to Kudo: It was written by Kudo "1,june,1917". It was just when Dewoitine leave Simferopol. He wrote "A mon ami Koudo Bon souvenirs
E Dewoitine".
工藤の旅立ちはドヴォワティーヌに遅れること4ヶ月余りの10月過ぎだった。以下その経路をみてみよう。
◎1917(大正6)年 10月29日 第2リチェイニー地区警察署のチェックがパスポートにされている。
都市名は不明。
11月 8日 ペトログラード日本大使館 Japan
embassy in Petrograd
ここで「イギリス経由でフランスに行くことを許可する」との文書
交付を受けている。
11月22日 ベロオストロフ国境監視所長のチェック。 Bero-ostorof?
場所不明、ロシア・フィンランド国境か?
11月23日 トルニオ Tornio
フィンランド・スウェーデン国境の町 北極圏付近
11月26日 コングスビンゲル Kongsvinger
スウェーデン・ノルウェイ国境の町
11月26日 ベルゲン Bergen
ノルウェイの港町、ここから漁船に乗ったという。
12月10日 アバディーン Aberdeen
スコットランド北東部の港町。漁船で北海を横断中、漂流し遭
難しかかったとの伝聞がある。ベルゲンから2週間を要して
いることからもうなずける。
12月12日 ロンドン London
12月14日 サウザンプトン Southampton
12月15日 ルアーブル Le Havre
◎1918(大正7)年 2月15日 パリ日本大使館 Japan embassy in Paris
以上で信じられないほどの過酷な脱出行も終わりを告げる。この後ドヴォワティーヌとどういう形で再会したかは定かではないが、「よくぞ、生きて来てくれた!」という思いがほとばしったことは想像に難くない。