知られざる飛行機製作者

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CONSTRUCTION AERONAUTIQUE in FRANCE
EXCELLENT MECHANICIAN from ORIENT

(1889-1959)

工藤富治の足跡

English

 工藤富治は、明治22(1889)年、青森県下北郡大湊村(現むつ市大湊)に生まれました。 彼の父吉右衛門、祖父金兵衛と船大工でした。だから、彼は子供の頃から物づくりということにとても興味をもっていたのです。
 明治35(1902)年大湊小学校を卒業した富治は、その頃できた海軍大湊水雷団の修理工場に就職しました。その頃日本は大国ロシアとの緊張が高まる中、海軍の増強に必死でした。富治は、当時まだ少年でしたが腕の良さは抜きんでていたようで、抜擢され横須賀にも行っています。そのような中で金属加工などの技術を磨いていったのです。
 明治41(1908)年富治は海軍を退職、北海道に渡り独自で事業をしようとします。結婚し子供も生まれましたが暮らし向きは楽ではありませんでした。さらに悪いことに大湊の実家でも事業に失敗し破産、そのような状態で富治の両親も亡くなってしまったのです。
 大正3(1914)年ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。連合国側についた日本はロシアとの交易が増していきました。 ロシアで飛行機製作技術者を募集している、と富治が聞いたのはその頃でした。 

     エミール・ドヴォワティーヌと工藤富治(左)

 「ロシアで一旗揚げるんだ。」そう決心した富治は、大正5(1916)年ロシアに向けて旅立ちます。もちろん言葉もわからないし、飛行機の知識もありませんでした。しかし、富治を駆り立てる何かがあったのです。シベリア鉄道で大陸を横断、黒海のほとりの都市オデッサに着きました。
 そこで紹介されたのがフランス人エミール・ドヴォワティーヌでした。彼は現在アエロスパシアル社(トゥールーズ工場)の創始者として知られるに至っています。(皆さんもコンコルドやエアバスをご存じでしょう。それは、ドヴォワティーヌの流れをくむこれらの会社で製造されたのです。)
 富治とドヴォワティーヌはオデッサからクリミア半島のシンフェロポルという街に行って飛行機工場を創建するため、時には競い合うように時には励まし合い協力し働いたのです。    ドヴォワティーヌC1D1戦闘機と工藤富治(中央)
 もう少しで工場が軌道に乗るといった矢先、1917年ロシア革命が勃発しました。命の危険さえ迫る中、ドヴォワティーヌはいち早く脱出を決断フランスに旅立ちました。富治はどうすべきか迷いましたが結局、フランスで会おうと約束したドヴォワティーヌの後を追い脱出の旅に出たのです。旅は過酷なものでした。北上しペトログラードに行きさらに北極圏まで北上、そしてスカンジナビア半島を南下ノルウェイのベルゲンから船で北海を渡りイギリスへそして英仏海峡を渡りフランスへというコースです。途中何度も死にそうな目に遭ったということですが、今となっては実際に話を聞けないのが残念です。
 1920年ドヴォワティーヌは南フランスのトゥールーズに自分の会社を設立します。(ConstructionAeronautiques Emile Dewoitine)
 デビュー作は1922年のC1D1戦闘機でした。この飛行機は機体が全金属製(ジュラルミン)です。この頃の飛行機といえば木製の骨組みに布を張ったものが主流でしたから大変画期的なものといえます。この飛行機の開発にあたっては富治の金属加工の技術が遺憾なく発揮されたであろうことは容易に想像できます。.  この飛行機はイタリア、スイスにも輸出され富治はたびたび技術指導に赴いています。 "ドヴォワティーヌ社" スタッフ, 工藤富治(前列中央)
 
 1930年ドヴォワティーヌ社では長距離飛行機を開発しました。D33「トレ・デュニオン号」です。富治がこの飛行機の製作には「身命を賭した」と自ら語るほど心血を注いだものでした。  
 1931年6月トレ・デュニオン号は世界的名パイロット、ルブリ、ドレーらの操縦により長距離飛行の世界記録 10372kmを樹立しました。
 その頃は航空記録競争の時代、彼らは間髪を入れず7月パリ-東京無着陸飛行に挑戦します。東京まで着いたら次は一気に太平洋を横断する計画で東京駐在員として富治が派遣されたのです。これが、富治の15年振りの帰国となりました。
 しかし、トレ・デュニオン号はバイカル湖の手前でエンジントラブルを起こし不時着してしまうのです。
 
 9月。トレ・デュニオン号2号で再び挑戦しますが今度はウラル山中に墜落、ルブリら2人が死亡、ドレーだけパラシュートで脱出、命拾いをするという悲劇でこの計画は幕を閉じてしまうのでした。    トレ・デュニオン号   工藤富治 (左端)
 工藤富治やドヴォワティーヌ等々に関する情報を求めています。どんなことでも結構ですので工藤和彦(下記)にご連絡いただければ幸いです。  
 これを機に富治はドヴォワティーヌ社を退職、日本に帰国しました。
 昭和9(1934)年東京帝国大学航空研究所では世界記録を狙う長距離飛行機の開発を進めていました。
 富治はこのプロジェクトでとても重要な役割を担うこととなりました。というのもただ一人長距離世界記録を達成した飛行機を実際に製作した経験を持っていたからです。
 「航研機」といつしか呼ばれるようになったこの飛行機は昭和12(1937)年に完成、翌昭和13(1938)年5月、関東上空を周回飛行し当時の世界記録 11651kmを樹立したのです。これが、現在においても国産機における 唯一の公認世界記録となっているのです。
 昭和20(1945)年、日本は第二次世界大戦における敗戦国となり飛行機に関する一切のことが禁止されました。富治もその後二度と飛行機製作に携わることはありませんでした。
 昭和34年(1959)年5月工藤富治は故郷大湊の街で70年の波乱に満ちた生涯を閉じたのです。
工 藤 和 彦, (私の曾祖父の弟が工藤富治になります。)
住所:青森県むつ市大湊浜町40-3-3
電話・FAX.:0175-24-6228
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