青森での個展によせて
まだほんの子どもだったころから、津軽の言葉を聞きながら育ちました。祖母が世田谷の叔父の家から鎌倉へ来るとしばらく滞在しているのですが、祖母の生まれ育った家は弘前の元大工町にあり、同じ弘前の祖父のもとに嫁ぐまでは弘前に暮らしていたと思います。しっかりと身に付いた津軽弁は、その後の長い他県での暮らしにもゆるぎなく、孫の私達にも親しみのあるものになりました。
大学生になり八甲田でスキーをしていた先輩の誘いで、三月の八甲田山の厳しくも美しい世界に魅せられ、シールをつけて数々の連山を登ってはすべりしていました。ある日吹雪で猿倉の宿に戻れなくなった時、祖母の実家があることを思い出してそのまま弘前に着の身着のまま転がり込み、初めてルーツを実感しながらしばらく滞在していました。どっしりとした木造病院のたたずまいに遠い先祖の血が招いているかのように、夏休みの弘前通いが始まりました。数十年を経て夫が亡くなった翌二千年の3月、懇意にしていただいていた比叡山の阿闍梨さんからのお誘いで、心身ともに立ち直るには程遠い時期を、まだ雪深いこの地で大勢のお仲間と過ごすことが出来ました。滂沱と涙をながし、久々に笑い、飲み、大きな節目を乗り越えたのもこの青森でした。
その上、恩師斎藤義重の生誕の地でもあるこの青森で、何十年ぶりの「個展をしないか」といってくださったのが、もろもろの事情など知る由のない西衡器製作所の嶋中さんなのです。そしてまた、美しい画廊空間を案内しながら、「目に見える結果がすぐに得られなくとも、将来の役に立つことに先鞭をつける」という潔い西社長のおはなしに敬服し、その新たなる門出に参加させていただけることは、光栄であり感謝に堪えません。
二〇〇六年四月
吉田 榘子
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