naca npo法人アートコアあおもり
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naca アート井戸端会議

第60回アート井戸端会議
佐々木高雄トークトークトーク
歴史三題噺「光琳・忠臣蔵・津軽藩」
2011年01月15日(土)18:30-
アウガ5階小会議室
青森市新町 1-3-7 TEL 017-776-8800


本題に入る前に、前座として黒岩理事が津軽藩と山鹿素行との関係について話しました。建部綾足の祖母が 実は山鹿素行の娘鶴でした。ときの藩主は四代信政公。信政公は幼少の頃から山鹿素行に心酔していて、素行の 高弟を何人も召し抱えました。その中には素行の長女亀と連れ添った山鹿八郎左衛門、後の津軽大学や素行の愛弟子 礒谷兄弟などがいました。信政公と山鹿素行とは江戸で、お互いに行ったり来たりしていて、素行の日記に出てくるだけでも、 192回も行き来しています。以上からも分かるように、津軽藩あげて素行の弟子だったということができます。素行の 『中朝事実』を刊行したのは津軽藩でした。素行の日記に、綾足の祖父、津軽監物政広が刊行なった『中朝事実』を 江戸の素行に届けたことが書かれています。

さて本題です。・男関係、女関係に忙しく、窮乏状況にあった光琳のこと。・光琳が津軽藩のために「紅白梅図」(MOA美術館)を描いたこと。津軽家伝来の光琳にもう一点 「草花図巻」(個人蔵)があること。・吉良邸と目と鼻の先に、赤穂浪士が偽名で住み込んでいたこと。 ・幕府は見て見ぬふりをしていたこと。・弘前の大石家に義士の手紙(大石無人宛て)が何通も残っていること。 ・大石無人(大石内蔵助の 遠縁)の長男大石良麿が津軽藩士であったこと。・浅野家と伊達家が「不通」であったこと。 ・「不通」であることの重大性。 ・吉良に対する袖の下が浅野家と伊達家とでは格段の差があったこと。・内匠頭が庭先で腹を切らされたこと。 ・しかも介錯の刀が鈍刀であったこと。・松浦静山の「甲子夜話」に赤穂事件の噂がさまざま出ていること。