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井戸端  佐々木高雄 第2回トークトークトーク
日時:2010年9月18日(土)18:30-
会場:アウガ5階小会議室

詩人村次郎ならびに会津藩士広沢安任との出会い
佐々木高雄

1951(昭和26)年 弘前高校2年
方言詩集「まるめろ」の詩人高木恭造さんの紹介で八戸市鮫在住の詩人村次郎(石田実)を訪問。土曜の授業を二時間で済ませ、後はさぼって鮫に直行し、現代詩から民俗芸能、植物文化史、言語学、漁業等々、村さんの頭に浮かんでくる諸々の事象が八戸弁となって機関銃の銃弾のように飛んでくるのに耐え、早朝起こされて濃いガスの中を鮫角灯台から大須賀海岸の辺りまで散歩に引き出され、帰る際には本棚から十冊ばかり本を取り出し「次に来るまでに読んでこい」と持たされた。

1955(昭和30)年 東奥日報入社。

1961(昭和36)年 編集局文化部〜
1965(昭和40)年 東京支社編集部〜
1968(昭和43)年 本社社会部へ。
1964(昭和39)年 日本人類学会など九学会連合による下北半島総合調査を独占取材。
1968(昭和43)年 十勝沖地震に遭遇
1970(昭和45)年 東北大学加藤陸奥雄学長を隊長に据え白神岳学術調査企画、独占取材。

1976(昭和51)年 三沢支局長〜
1979(昭和54)年 本社へ戻る。
着任早々、谷地頭の広沢牧場へ。四代目の広沢一任氏に挨拶。本屋で子母沢寛著「新撰組始末記」購入、会津藩士広沢安任の存在を知り、以後明治維新関係の資料集めにとりかかる。
作家綱淵謙錠氏を広沢牧場に案内。

1983(昭和58)年 文化部長就任。
1984(昭和59)年 日本新聞協会の要請で日中記者交歓の一員に選ばれ、中国出張、北京経由シルクロード視察。
同年、三沢市が開催した広沢安任展のパンフに安任の生涯と年譜を執筆。
1985(昭和60)年 詩人・故夏堀茂さんら仲間が復刻版「忘魚の歌」と「風の歌」刊行、東奥日報から作家中村真一郎に原稿依頼。

1989(平成元)年 八戸支社長就任。

1991(平成3)年 本社へもどる。
1997(平成9)年 村次郎死去、82歳。
1998(平成10)年 東京鹿児島県人会総会に招待され「明治維新が結んだ薩摩藩と会津藩」の趣旨で講演。これが縁となり、南日本新聞に「東北開発の恩人大久保利通」を執筆。

2009(平成21)年 
村さんの実弟石田勝三郎氏から遺稿詩集出版の相談を受ける。現在作業中。

2010(平成22)年 
仙台会津会から講演依頼を受け「知られざる会津藩士広沢安任(こちら側の志士・広沢安任)」を講演。

2010年8月26日

こちら側の志士・広沢安任

会社をリタイアして5年たちました。青森郊外に住んでいてほとんど外に出ていません。会話がなくなると声帯が緩み、声がかすれていましたが、ここに来るというので1週前から訓練しやっと声が出るようになりました。お聞きにくいと思います。お許しください。

斗南藩もそうですが意外と知られていないのが広沢安任という人物です。テレビで坂本龍馬を盛んにやっています。司馬遼太郎(の著書)もそうですけれど、志士と呼ばれる人間は全部西側の人間なのです。東軍の人間に志士と呼ばれる人間などいるわけがないという不届きな作家もおりますけれど、私はある意味で坂本竜馬や高杉晋作などむこうの人間以上に日本のことを考えた志士がちゃんと会津藩にもいた、その一人が広沢安任だと思っています。そういうことでお話したいと思っています。

広沢安任は天保元年(1830)に生まれました。会津藩の最下級の武士の出身です。2軒長屋で玄関にドアがついてない、筵がぶら下がっているような家に育ちました。幼い頃から兄たちと一緒に春は山菜、秋はきのこを採って家計の足しにしています。非常に頭が良くて勉強好きで、中級以上の武士が中心だった日新館に下級の武士から抜擢されて入っています。そこでめきめき頭角を現し、26歳になった頃藩から抜擢され江戸の昌平黌に入学します。(いまでいえば)東京大学に入るのです。そのころの昌平黌の学長は学問所創立の林羅山に連なる学頭林子平です。この人に目をかけられ、しかも成績優秀なものですから、二つあった寮のうち、西国の藩の寮長は長州藩の子弟、東国の藩の寮長は広沢安任が勤め、第一等の成績を修めて卒業します。  ちょうどペリーが来ていました。会津藩は沿岸警備を申し付けられ、木更津に駐屯します。彼も木更津で警備隊員として勤め、ペリーの艦隊を眺めることになります。彼が外国に触れる最初のことと思います。彼は自身の知識の足らなさを身をもって感じ、水戸の藤田東湖のところに弟子入りします。そこでヨーロッパのいろいろな知識を仕入れます。

幕府からも注目されていました。その頃日本を窺っている外国がたくさんありました。ひとつはロシアです。ロシアの使節団が函館に来て国境談判を始め、千島列島をよこせ、樺太をよこせといい始めました。幕府の国境談判の使節団は糟谷筑後守で、昌平黌を修了しただけでまだ無名の広沢安任が随員として抜擢されました。函館にはおよそ1年以上いました。談判の席に列席したり、暇なときには十勝地方まで歩いています。そのとき案内したのが蝦夷地探検家松浦武四郎です。松浦武四郎は後に北海道開拓使の判官になり、北海道という名前を作った人間です。この人間と一緒に松前藩とかアイヌとかを調べて歩くわけです。  

その最中の文久2年(1862)8月1日、松平容保公が京都守護職に任命されます。北海道に急使が来てすぐに帰れと命ぜられ、便船に乗って到着した品川から東海道を上京中の容保公を追いかけ三島で合流します。そこで「公用方に任ずる」といわれます。外交官兼秘書官のようなもので、容保公が守護職就任と同時に作った職制です。上級の侍は公用人、下級の侍は公用方といわれました。20人前後いたものと思います。容保公から秋月悌二郎とともに井伊直弼亡き後の彦根藩の動向を探れと命ぜられ先行します。探索の報告を受け、容保公は文久2年12月京都入りします。

その頃京都では、自称勤皇の志士と称する不良侍たちが商人を狙っていました。そのような巷に入り、黒谷の金戒光明寺に本陣を張ります。彼(の任務)は 007のようなもので、薩摩、長州の京都詰めの侍と仲良くなり、情報交換をやります。久坂玄瑞という長州の暴れん坊とも仲良くなり、あるとき道で会い、「関白にところに行っているか、行ってみろ」と紹介されたりしている。

長州が騒動を起こして薩摩と会津が鎮圧した七卿落ちという事件がありますが、七卿の一人である東久世道禧が「維新前夜」という記録に面白いことを書いています。広沢安任に追われた公家さんの記述です。「会津に広沢富次郎(安任)という人間あり。有為の人物なり。その頃(の会津藩を取り仕切っていたの)は手代木直右衛門、秋月悌二郎なる人物なれどもこの二人は凡庸の人物にして秋月は学問あれど迂遠なり、手代木は無学にして少々俗才あり、広沢にあっては学識あって役に立つ男なり。大和行幸の勅命出るや秋月、手代木は大いに驚くのみ、なんともなすところを知らず。広沢はこれを聞きて我に一策あり、この局面を変じて見すべしという。」としてみごと大和行幸の長州の陰謀をつぶすのです。これだけ敵方からもほめられている人間なのです。

姉小路公知という公家が田中雄平という薩摩の脱藩者に暗殺されます。田中雄平の潜んでいるところが分かり、広沢安任は京都守護職、京都所司代とともに逮捕に向かった。抵抗するものは切り捨てるということになっていましたが、広沢は自分に策ありとして一人で入っていく。田中は薩摩示現流の使い手です。「私は天皇の勅命で逮捕にきた。抵抗すれば直ちに切る。おとなしくいうことを聞けば侍なので縄をかけない。」その気迫に押され、田中は刀を差し出し連行されるのです。所司代で尋問が始まろうとしたときについて、「幕末会津志士伝」という本にすごいことが書いてある。「雄平やにわに傍らの大刀をつかみ、腹を二度刺す。二度ともその切先の背中に出ずるを見たり」と。その場にいた人間でなければそこまで書けません。

元治元年(1864)佐久間象山が殺し屋に暗殺されます。そのころ広沢安任は象山と一緒になって、こんな危険な京の都に天皇を置いておくわけにはいかない、彦根に遷都しようという計画をたてていた。それを薩長の連中が聞きつけ、白馬に乗り黒い西洋マントを着て家に帰る途中の象山を襲う。象山は馬の首にしがみついて玄関にたどりつき式台に倒れこむ。そこに象山と会談のため広沢安任が来合わせた。奥から象山の奥さんが出てきます。奥さんは勝海舟の妹です。広沢安任は、「遺体を式台から奥の部屋に隠せ、式台の血を全部拭け、象山の藩には病気で亡くなったと届けよ(なぜかというとお家断絶になるからです、恥辱ですから)」と全部始末し、象山の家名を残すのです。

文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけ、薩英戦争で薩摩は英国に、馬関戦争で長州は英仏蘭米の4カ国に敗れます。自分たちの武器がいかに劣っているかということを身にしみて分かり、負けた英国から頭をさげて武器を買います。英国はアヘン戦争における清国と同様に、日本を席巻しようとする下心がありました。日本は長崎のほかに函館と横浜の3港を開港していましたが、更に京都に近い神戸を開けと要求し、フランスの軍艦などと共にデモを行った。これに対し在京47藩の留守居役により開港の可否に関する協議が行われました。薩摩の大久保一蔵も入っています。ほとんどが開港拒否という中で、広沢安任は、「西国であれほどの戦いをやって英国に負けた。いかにヨーロッパの文明が進んだものであるか、この文明を取り入れていかなければこれからの日本は生きていけない。」といって神戸開港の方向に逆転させてしまいます。それを知った岡山藩の花房義質という男が思わず激高して切りかかろうとし、それを止めたのが芸洲藩の同僚かあるいは大久保利通ではなかったかといわれています。

この花房という男は明治になってから浅草などで広沢に似た人物が来るとわざとぶつかってけんかを売るほど広沢を憎んでいました。明治24年2月1日インフルエンザで広沢安任が62歳で死にます。その頃広沢安任は新宿角筈いまの新宿駅西口から新宿警察署のあたりに100間×100間の牧場を開き、乳牛を育て牛乳やバターなどを作っていました。バターは日本郵船に納めていました。夏目漱石の先祖もあのあたりに牧場を作っていました。新宿御苑が農商務省の用地で近所だったのです。2月5日に葬式を出しましたが香典帳を見たら4日間に亘り毎晩花房が香典50銭を出している。あの憎き広沢の通夜に出ているのです。当時の人間たちを敵と味方という単純な区別をするわけにはいかないようです。

葬儀では新宿角筈から青山の斎場まで行列が出ました。先頭が白馬に乗った明治天皇の供物、供花です。賊軍ですよ。恐らく会津藩士で明治天皇から供物・供花をいただいたのはそうないと思います。行列の先頭は榎本武揚、次いで牧野伸顕(大久保利通の次男)、渋沢栄一らでした。三沢の広沢牧場に墓がある。神道ですので火葬にしていません。その墓碑銘が土佐の谷干城です。みんな敵味方仲良かった証拠と思います。三沢で小さなささやかな葬式をやるのですがその見取り図が残っています。一角に乃木と書いてあります。乃木希典の弟です。千葉の御料牧場にいたが、兄とは似ても似つかぬ道楽男で乃木希典も手に負えなく、京都時代の薩長の士人との付き合いで知り合った縁で、三沢で牧夫として使ってくれといって広沢に預けた。彼はここで心を入れ替え、忠実な牧夫であったといいます。

京都守護職詰めのとき忙しい身でありながら金戒光明寺の中に日新館の分校(学習院)を作ります。そこでヨーロッパの文明の知識を得させようとし、上級武士の子弟たちを何人かを勉強させるのです。その中から抜擢してヨーロッパ当時の英国とかプロシアとかに留学させる。その一人が山川浩です。

戊辰戦争のとき広沢は、やっとの思いで京都から大阪にたどり着き、徳川慶喜と松平容保公が江戸に逃げ帰ったあと残った藩士を引率して和歌山に逃げます。ありったけの金で磯舟を集めさせ、傷ついた1800人を乗せ紀伊半島を回って津にたどりつく。津から親藩の桑名を経由し江戸に向かう。江戸に帰ってからは休むまもなく殿様の助命嘆願運動を始める。殿様は会津に帰るから残ってやるようにといわれ、南砂町に住み同士11名とともに助命嘆願運動をやる。尋常でいくわけがありません。そのうち江戸に西郷が入ってきます。明治元年閏7月、薩摩の益満休之助を使って江戸城に入り西郷に会おうとする。出てきたのは参謀の西郷の片腕とされた旧知の海江田信義。「やはり生きていたか」、「助命嘆願書を持ってきた」、「少し待て」といって奥に引っ込む。官軍はいろいろな藩の集合体です。そこで広沢を知らない藩が「会賊」がいたといって捕まり、それまで執務していた会津藩上屋敷に収容される。さらに伝馬町に移される。伝馬町では首切り朝右衛門がばっさばっさと首を切っていた。牢屋の中は惨憺たる状態であった。これを聞きつけたのは英国大使館一等書記官のアーネスト・サトーです。彼は、日本の侍は意地汚くて好色で酒飲みで、どうにもならないやつが多すぎるという批判を書いています。アーネスト・サトーの護衛役をやったのが野口富蔵という会津藩士であった。その縁があってあるとき江戸でアーネスト・サトーと広沢が会って話をしています。アーネスト・サトーは、「この男は会津藩士で、かなり腰をすえて日本の現状について話した」と書いています。広沢という人間の人となりを見破っていました。それで広沢が捕まり伝馬町にいることを知って、木戸孝允に「維新の大儀とは何か、これからの日本にとって有為な人間を殺すとは何事だ」といって彼を助ける。囚われていたため彼は鶴ヶ城の戦争には加われなかった。武士としての死に場所を選べなかったわけです。

獄舎から解放され会津に戻ったとき、会津は28万石から3万石に落とされ、猪苗代の北か下北半島かどちらかを選べといわれていました。猪苗代の北の炭焼きをやるしかないような土地では、とても1万7千人が食べ暮らせるわけがありません。そのとき広沢は土地があるのだから下北に行こうと皆を説得し、反対を押し切って下北に行くのです。そのうちの一部は陸軍省が屯田兵のつもりで北海道に連れていった。長万部とか瀬棚に押し込められ惨憺たる目にあいます。また樺太まで行かされようともしています。

明治9年7月の天皇行幸で天皇がまだ三戸にいるとき、大久保利通は先行して野辺地に泊まります。朝5時に起き、県の知事を連れ馬で自分から三沢の牧場まで広沢に会いに行く。相手は賊軍である。広沢は牧場の入り口で、野良着で腰に大きな鎌をぶら下げて待つ。一晩泊まりで話し込みます。酸っぱくなったドブロク、固くなった身欠きにしん、古くなった豆漬、それしかなかったそうです。それを大久保に食わせました。大久保は、「農商務卿をやってくれないか」というが、広沢は「野にあって国に尽くす」と言って断ります。

明治14年には松方正義大蔵卿が来て1週間泊まった。彼もまた農商務卿をやってくれないかと頼む。これも断ります。
そのあと谷干城農商務卿が北海道開拓使長官をやってくれないかと要請するがこれも断る。

彼には別の希望があった。彼は探検家になりたかった。明治18年畜産協会を作ってそこの理事長のとき東京で渋沢栄一日銀総裁に会い、「1800円を貸せ」「何に使う」「南洋探検をやりたい。」「未だ時期が早い、もうすこし待て。」といわれる。彼の望みは実現しなかったが3代目の春彦という人間がスマトラ島に木材の輸入会社を作る。2代目の弁二(べんじ)はやはり畜産協会に入り、アメリカに行って種馬25頭、牛や豚・鶏を輸入している。今の日本畜産業の基礎を作り競馬の振興に尽くし東京獣医学校長に就任したのは2代目の弁二でした。
たしかにつらい、つらい思いをしている。斗南藩というのは3万石といいますが、実質は7千5百石しかなかった。どうして暮らせますか。だから鳩侍とかいろいろなことを言われ、刀をつぶして鍬を作ったほどの苦労をしました。
まだまだいろいろな話があります。
いろいろな会津藩関係の本がありますが、非常に珍しい本を見つけました。熊田葦城著「幕府瓦解史」という本で、大正4年に刊行されています。報知新聞の記者が連載したものをまとめたものです。ここに「凡その著書は勝者に厚くして敗者に薄きの感なきにあらず。」と書かれ、この本「幕府瓦解史」は逆である、つまり敗者に厚くしていると言っています。このあとがきを最後に紹介したいと思います。

久しきものは倦み、倦むものは衰ふ、是れ勢いなり。
勝つものは驕り、驕るものは亡ぶ、亦た是れ勢いなり。
幕府の倦みて、驕るや久し、その前途唯衰亡あるのみ。
幕府衰亡の勢既に成る、故に之を倒すは易く、之を支ふるは難し。
薩長は其易きを為さんとす、故に労少なくして能く功を成す。
会桑は其難きものを為さんとす、故に労多くして、却て罪を招く。
然らば即ち薩長は智にして、会桑は愚なるか。
否な、何ぞ然らん、唯其境遇、位置の之をして然らしめたるのみ。
会桑をして薩長の位置に立たしむれば、亦た能く薩長の功を成さん。
薩長をして会桑の境遇に在らしむれば、亦た終に会桑の罪を招かん。
勝つもの以て誇るに足らず、敗るるもの以て悲しむに足らざるなり。

夫れ六国亡びて二十年、秦も亦た亡ぶ。
今や薩長権を執ること実に四十年、豈に勝ちて驕り、驕りて亡ぶるの勢いなきか。
嗚呼驕るもの久しからず、和漢皆然り。

つまり勝った人間だけの世なのかということなのです。負けた人間ほどちゃんと国を考えていたということをこの新聞記者は書いています。
今数ある本はすべて薩摩や長州のいいことばかり書いています。この本の識語を紹介して広沢安任の話をしめくらせていただきます。

ありがとうございました。