布に描いた抽象世界
− アフリカ・クバのパッチワーク −
佐々木高雄
私たちの人生の途次で、幼年から青年、あるいは少年から青年へと移り変わる節目ごとに、産着から七五三、
学生服を脱いで背広の上下とか、還暦の赤いチャンチャンコと次々に着替えて、終着駅は白い死に装束と”衣替え儀礼”を
繰り返してきたのは、これまでに誰しもが経験してきたことです。衣・食・住という使い古された言葉を持ち出すまでもなく、
人間と衣装との関わり合いは、世界中どこの国でも程度の差こそあれ、同じような遍歴を辿っているものと思われます。
アフリカとて同じです。厳しい環境であればあるほど、かえって身にまとう衣装に寄せる思いが強まり、一枚の布に、
装おうという最も根源的な機能に加えて、財産としての付加価値、地位や名誉の誇示、祖霊崇拝や伝統継承、呪術封入による
身辺保全等々、人間が生活を営むうえに必要な要素を、どん欲なまでに取り入れ、身にまとっているのです。
前回の展覧会では、同じ中央アフリカ・コンゴ民主共和国に存在するクバ王国特有の織物である草ビロードを紹介しました
が、今回は同じ王国で最も勢力の強いブショング族の特技で、アップリケやドロンワークを駆使したパッチワークを特集しま
した。草ビロードと同じようにラフィア椰子の葉から採った繊維で糸を作り、男手で50〜60a四方の正方形の布を織りあげ
ます。できたばかりの布は糸そのものが固いので畳表のようにゴツゴツした肌触りなので、柔らかくする必要があります。
臼に入れて搗いたり、砧で打ったりして肌触りを良くする工夫を施しますが、強く打ったりすると穴があいたり、縫い目が
ほぐれたりすることもあります。
ここからが女手の仕事になります。穴をふさいだり、ほころびを繕うため、小さな布で補修したのが、パッチワークの土台
となりました。正方形の布を何枚かつなぎ合わせ、儀式や舞踏会のための巻きスカートを作ることになります。男性用は4〜
6bの長いスカート、女性用はそれより短いものですが、作り手の家の社会的立場など前述した様々な要素を加え、
その家ならではの独自なデザインでスカートの紋様はどんどん発展し、どれひとつとして同じ作品はないほどの、
クバ王国にしか見られない工芸品を生み出したのです。
一枚のスカートには、私たちの想像を越える深い意味がこめられています。子供が生まれると作品をつくり始めます。
成人の儀式となる最初のダンスパーティの晴れ着になり、男ぶりはもちろんですが、スカートの出来具合が勝負で、
母親の手わざに惚れこんでの婚約成立ということも起こります。スカートを身につける最高の晴れの舞台は葬儀です。
生涯を終えると、親族が作ってくれた自慢の布を身体中に幾重にも巻きつけ、家の前に安置されて数日間、王国の人々に
披露します。あの世で待っている先祖にも、こんなにいい布を持っているので、そちらに行っても粗末にするなという意思
表示でもあります。これはある意味での、再生願望のあらわれであり、魂が死から蘇り、新たな生命を持って生まれ替ると
いう原始信仰の名残りと思われます。
1912年、スイス生まれの画家パウル・クレーは、友人に宛てた手紙に「今日もなお、芸術を刷新し続けているのは、
プリミティヴなものです」と書いています。この頃はまだカンディンスキーらと美術グループ『青騎士』に属していた頃で、
作品にプリミティヴ・アートが影響するきざしはみられません。1928年暮れ、クレーはエジプト旅行に出かけ初めて
アフリカの土を踏みます。1930年、バウハウスからクレーの絵が排除された頃、チューリンゲン州の内務大臣でナチス党員
だった男が、アフリカ文化を弾劾する布告を出しているのは興味深い事です。30年代以降からクレーの作品には、次第に
アフリカやオセアニアの民族芸術の匂いのするものが登場するようになります。クレーは、たしかにクバ王国が生み出した
パッチワークの一連の作品をどこかで目にしている筈です。
また、青森県内で出土した縄文時代後期文化の紋様と、クバのパッチワークとが極めて似ていることに気がつきました。
日本とアフリカ、縄文時代の紀元前と現代という大きく離れた空間と時間なのに、この相似形はどういうことなのでしょう。
一緒に考えてみようではありませんか。
(naca理事長)
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