naca npo法人アートコアあおもり
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non non fictions project

斎藤 智

略歴
1982 宮城県生まれ
2004 東京造形大学造形学部美術学科・絵画入学
2006 「チヂミとラベンダー」展(インプレオギャラリー)
    同大学絵画・広域表現指標3年在籍

アーティストのステートメント

日常の浮遊。

0と1の暗号と同じように私の生の中に組み込まれている感覚。
瞬きを止め、黒と染みる光の世界にいるときに似ているきがします。
何台か通るアスファルト。部屋中を満たす女優たち。網戸から抜けてくる夕方の家族の匂い。それらを含めたとき、 私は私の記憶だけの存在になってしまう。
自然の力の中に生き続けたサン=テグジュペリ。失ったものを思い続けた、彼の王子様。私たちの共通するものは そこにあるのかもしれません。
生きる日々のズレから生じた私たちの出会いを、繋げることが今、私の留まる糸口になっているのかもしれません。

 

斎藤智 nonnonfictions
花田しのぶ

会場に足を踏み入れると、かつて、映画が街の人々にとって特別な娯楽であった時代に数々の名作のポスターが掲げられていた掲示板は、「直径5ミリの丸い紙の粒」がランダムに入った2491枚の小さなクリアケース(5センチ×8センチ)で埋め尽くされ、その隣のショーケースには、6冊の本が横一列に並べられているのがまず目に入る。
奥に進むと、右手に「入場券売り場」と書かれた窓口が見える。
映画館として機能していた時ならば、「大人1枚。」「1700円です。入り口は向かって左側の茶色い扉です。」といったやりとりが見られたであろうが、3年前に閉館したこの場所では、もはやそのようなコミュニケーションは生まれない。
その代わり、観客は、「大人1700 学生1400 中学1200 小学1000 幼児900」と書かれたガラスの向こうに、「無数の小さな穴の開いた手のひら大の紙切れ」が、床に市松模様をなすように敷き詰められ、また、同様の紙切れが、受付の机の半開きの引き出しから今にも溢れんばかりに高く積み重ねられているという、およそ映画とは結びつかない奇妙な光景を目にするのである。
ここで初めて、観客は、「直径5ミリの丸い紙の粒」と「無数の小さな穴の開いた紙切れ」の符合性に気づくのだ。
「果たしてこの紙は何なのだろう?」という疑問に対する答えは、横一列に並べられた6冊の本にある。
斎藤が、今回素材として選んだのは「Le Petit Prince」(邦題:星の王子様)であり、会場内のショウケースに掲げられた6冊は、様々な出版社から出版されている、体裁も、訳者も異なる「星の王子様」である。
9月3日に来青してから約1ヶ月、斎藤はこれらの様々な「星の王子様」を、毎日、ただひたすらパンチングしていった。
通常、パンチングというのは、それによって開いた穴を利用するため(紐を通したり、バインダーにはさんだり)に行う行為であり、それによって生じた「直径5ミリの丸い紙の粒」は、利用価値を持たない。言ってみれば単なるゴミである。
また、素材は「本」であるが、パンチングした時点で「本」としての機能、意味は消え失せ、単なる(かつて「本」であった)紙切れになる。
作品を鑑賞していた年配の女性たちが、「本」に穴を開けることに対して驚嘆の声をあげていたことからもわかるとおり、私たちには、幼少のころから「本は大切に扱うもの」という固定観念が染み付いており、ある種、「本」は汚してはならない聖なる存在なのである。
そのような「本」という存在に対して「穴」をあけることはつまり、著者に対する冒涜であると斎藤は定義する。
同時に、「丸」という形は、斎藤個人にとって、常に不安定な自己に対しての安心の象徴である。
制作当初、通常は利用価値のない「丸い紙の粒」を素材として利用することに重点を置いていたが、制作を進めていく中で、「無数の小さな穴の開いた手のひら大の紙切れ」に、失われたはずの「丸」の存在の痕跡がはっきりと認められることに興味を持ち、双方を素材として用いる最終的な展示の形を決定した。
パンチングによって生み出された「直径5ミリの丸い紙の粒」が詰まった2491枚のクリアケースが掲示板一面を埋め尽くしている様は、圧巻である。
斎藤は、パンチングすることによって「星の王子様」を分散化し、掲示板を埋め尽くすことで、駄菓子屋や、露店で売られているような、大量消費性向がある大衆的なイメージを作り出し、「星の王子様」を商品として生産可能な形でアウトプットしたかったと言う。
「大量にあること」は、それだけで、個々の物質(丸い紙の粒や、クリアケース、もしくはその中に紙の粒が入った単体)から受けるのとは全く異なった印象を湧出する。
だがしかし、その、大量性が与える印象が強すぎ、逆に、作家の思考のアウトプットや、タイトルとの関連性の受容の可能性が薄くなってしまったのではないだろうか。
次に、入場券売り場の床に目線を移そう。
市松模様に敷き詰められた「無数の小さな穴の開いた手のひら大の紙切れ」の穴からは、ところどころひび割れた床が見える。
斎藤は、「床」はサンテグジュペリが書いた本来の『Le petit prince』であり、それを穴の開いた紙切れで覆うことで、『Le petit prince』のフィクションであるということを表現しようとした。
また、個々の穴から床が見える部分もあり、紙に覆われて床が見えない部分もありという状態を作ることで、我々の理解は、サンテグジュペリの意図したもの(真実、オリジナル)と重なる部分もあるが完全な一致はありえないということを具現化しようとした。
「無数の小さな穴の開いた手のひら大の紙切れ」をかざした時に、穴の向こうに見えるものは真実であり、穴の周辺部分はフィクション(虚構、嘘)である。
フィクションとノンフィクションの境界を示すものとして、「無数の小さな穴の開いた手のひら大の紙切れ」の存在意義がある。

a.. 「non non fiction」と「星の王子様」
「non non fictions」とは、フィクションの二重否定、つまり「フィクション」である。
作者没後50年を経過して版権が切れ、様々な訳者による「星の王子様」を眼にすることが出来るようになったことで、「どれが本当にサンテグジュペリが伝えたかった『Le petit prince』なのか?」という疑念が生じ、それが、「本来の『Le petit prince』に対するフィクション」として、「自分なりの『Le petit prince』を表現したい」という今回の展示の制作動機につながったという。
しかしながら、版権問題をいうのであれば、没後50年を経た「名作」と呼ばれる作品は他にも多数存在するし、そこに「星の王子様」でなければならないという理由は見当たらない。
「星の王子様」という素材の持つ意味を重視するのであれば、その素材を選択したもっと強固な理由を提示すべきではなかったか。
斎藤はこれまでにも、松本清張の「砂の器」をパンチングし、「丸い紙の粒」の方のみを、パネル上に大量に貼り付け、「作家の意図した真実は、果たして正確に読み手に伝わるのか?」という疑問を視覚化しようとした。
「星の王子様」、「砂の器」に限らず、オリジナルと翻訳版の間、さらにはオリジナルを原語でのみ読んだ場合においても、読者による解釈のズレの出現は、大なり小なり必然である。
これは何も書物に限ったことではない。
この世の中のあらゆる存在について、他者(鑑賞者)による理解、受容、認識のズレは普遍的に発生する。
場合によっては、存在そのものの自己認識においてすら、そのようなズレが発生する可能性がある。
様々な訳者による「星の王子様」を読んだ時に、「どれが本当にサンテグジュペリが伝えたかったこと(オリジナル)なのか理解できない」というところで留まるのではなく、その「理解できない」という状態が、自己にとっての「星の王子様」なのだという認識を持つべきであろう。
つまり、訳の違い云々ではなく、すべての事象に関して、オリジナルは存在しない。
自分の中に入る(認識する)時点でオリジナルではない。
逆に言えば、自分でとらえたものが「自分自身にとってのオリジナル」となり得るのだ。
斎藤が今回提示したものは、「オリジナルはどこにあるのか?」という問いに対する回答ではなく、「オリジナルでないことがオリジナル」になる可能性に対する問題提起なのだ。

(フリー)