naca npo法人アートコアあおもり
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テリトリー

松田辰地

略歴
1982 長崎県生まれ
2006 武蔵野美術大学大学院院彫刻コース 在籍


アーティストのステートメント

テリトリー

遠景の公団住宅やニュータウンを眺めていると、ずっと昔からあるよう な、今突然立ちあらわれたような、あいまいな感覚に陥ることがある。 整然と並んだシンメトリーな構造を持った棟の中には、当たり前に私と は全く関係のないそれぞれの生活や営みがあるのだが、あたかも建築物 自体がそこに生活(棲息)しているような佇まいに見える。 私のこれまでの作品は都市や建造物をモチーフにしたものが多々あり、 制作していくなかで徐々に、私の興味の対象の核というべきものが「空 間の密度」と「継続」のふたつに明らかになってきたように思う。 都市やマンション群が疎密に在って、まるでそれら自体が淡々と棲息し ているかのような空間の密度と日常の継続。言い換えるならば、私、そ して他者の立っている「ここ」から、勝手に続いているであろう「そ こ」の間にある何らかの乖離を表現したい。 今回の青森での音と映像の作品は、特殊な録音方法で臨場感を強調した 普段の生活にある音をあえて暗い室内でヘッドフォンで聴いてもらうこ とによって、オープンな場の音をクローズドに(私のいた普段の空間を 追体験)することで、日常を異化したいという狙いがある。 それは、滞ること無く続いている何気ない日常の音は鑑賞者の日常にあ る音であるが、同様に私の日常の音でもあり、音が鳴っているヘッド フォンの向こうには私がいた空間の音が鳴っていて(鳴っていた)、録 音時の私の耳(当時の日常であり、鑑賞者からすれば他者の空間であ る)、鑑賞時の鑑賞者の耳(現在の日常でありパーソナルな空間であ る)は継続されている空間の密度という点において私と鑑賞者からのあ いまいな乖離である。

 

松田辰地 コンセプトとその実現の狭間で
黒岩恭介

カメラが視覚的な写生であるように、マイクロフォンは聴覚的な写生である。過去から現在にかけて、視覚芸術において手技による写生がそれだけでアートと見なされてきたし、今もなおそう見なしている人々は多い。しかし聴覚的な写生は視覚的なそれと比べて、作例がきわめて少ない。まれに作曲家が森の様子だとか、鳥のさえずりなどを、音によって写生して作曲するくらいである。たとえばメシアン。ここでもまた正確に音程をとり、リズムを模倣して写生するだけで、アートとして成立、鑑賞に堪えうる作品となっている。視覚の世界では、カメラの出現によって写生の考え方が激変したが、われわれはそっくりに描写された世界がよほど好きなようで、カメラを逆手に取った超写生的描写が、奇妙にも喜ばれ、二〇世紀後半、時代の先端を駆け抜けた歴史を持っている。
場所に発生する音響を音源の位置を特定できる特殊なマイクロフォンによって採取して、採取した場所の映像とともにヘッドフォンで聴かせるという仕掛けで、今回松田は暗い一室をそのインスタレーションの場としたが、その実現において、コンセプトにほど遠い結果に終わったのは残念なことである。DVD再生がうまくいかず、ヘッドフォンを耳に当て、耳をいくら澄ましても、聞こえてくるのは、この暗い一室で実際に耳にすることのできる雑多な音でしかなかった。しかしアートとは面白いもので、この機能不全に陥った機械のおかげで、このアーティストがもくろんだ場所=音響の提示を人工的な機械を通すことなく、生で味わうことになったのである。プロジェクターはその際無意味に青森の映像を一方の壁に投影し続けるという、意味連関をはずれた存在になってしまったけれども。。
アーティストのステートメントにある「日常の異化」は何も作品を通して実現されるとは限らない。主体のちょっとした意識の切り替えによって日常は異化される。ただこの暗い一室での体験では、アーティストの体験を追体験するという、このアーティストの大きな狙いの一つが、欠如体としてぽっかり抜けていたのであった。

(naca理事)