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naca 第1回ジャズとモルトと生ハムの夕べ | |||
乾杯のあと、佐々木理事長のニューヨーク訪問の 数々のエピソードが披露されました。 | |||
生ハムは三澤理事のお手製です。熟成を控えたあっさりした食べやすいハムでした。 | |||
【ブルーノート】by Shimanaka ジャズの三大レーベルといえば、「ブルーノート」(1939年創立)、「プレステッジ」(1949年同)、そして「リバーサイド」(1952年同)。このモダン・ジャズ界において最高にして最強のレーベル、「ブルーノート・レコード」を創ったのが、二人の若きドイツ人であったということをご存知だろうか? 「アルフレッド・ライオン」と「フランシス・ウルフ」 国を捨て、フォービートに青春と人生そのものを捧げた、この熱烈なジャズ・ファンの足跡をたどることで、いまモダン・ジャズの興奮と創造の歴史が鮮やかに甦る。 16歳の時、母に連れられて行ったコンサートで、黒人音楽のビートに魅せられてしまったライオンは、若干20歳で渡米する。港湾労働で生活費を稼ぎ、時にセントラルパークで野宿をしながら、夜毎ジャズを求めて街を彷徨う生活を送る。しかし、そんな無理な生活は続く訳も無く、三年後、失意の内に帰国の途に着く。落ち着くのもつかの間、折しも故国ドイツは暗い戦争の時代に突入、父母(母はユダヤ人)の離婚にはじまり、画商として父と二人スイスへの移住。作品買い付けの為に駐在していた南米で、思い掛けなくも、ニューヨークの画商から誘いを受ける。 26歳、再び訪れることもないだろうと思っていたニューヨークの街、そしてジャズ。ライオンは、以前にも増して夜の街にブルーノート(本来は「ブルース(ズ)の音階」のことで、「ミ、ソ、シ」が半音下がる黒人独特の音階。労働歌や、黒人霊歌からブルースとなる)を求め歩くことになる。 そして、あるコンサートを聴き終えたライオンは、興奮を抑えきれずに飛び込んだ楽屋で、自身思いもかけないことばを発する。
もちろん、レコード製作のことなど何ひとつ知らないただ熱烈なるジャズ(ブルース)ファンの青年であった。 ともかくもレコード業界に飛び込んでしまったライオンは、新しい音楽を求める情熱と、回りの音楽仲間たちの助力を得ながら、1939年初のジャズ専門レコード会社をスタートさせる。翌年吹き込んだ、シドニー・ベシェの「サマータイム」がヒットし、順調なすべり出しをした。そして、カメラマンを目指していた、故郷のジャズ仲間にして一歳年上の親友であるウルフを呼び寄せ、二人でブルーノートの経営に当たる。(この時、悩みながらも、ウルフは最後の汽船に乗ってアメリカに来る)しかし間もなく、第二次世界大戦に突入。市民権を得たいがために、ライオンは苦渋の決断の上、志願兵となる。戦う相手が祖国ドイツになるかもしれないのだった。しかし、国内勤務の中、ホットクラブ(ジャズ同好会)の中でも無類のジャズ好きで、知識も豊富な、15歳年下で妹のような存在であった「ロレイン」と結婚したことで、市民権を得ることになる。 除隊後、本格的にプロデューサーとしてブルーノートを率い、(とはいっても、社員はウルフだけで、それも賃金もろくに出せない状態が続き、ウルフはしばらくの間、結婚式のカメラマン等をして生活費を稼いでライオンを物心両面で支える)以後リタイアするまでの間、超人的に、新人や新しい音楽を発掘し、構成し、最良のカタチで記録していく。実質的な個人レーベル、個人プロデュースでありながら、圧倒的な量と品質の高さを維持できた最大の原因は、ライオンが、ニュートラルに好きな音楽だけを追い求めることができた、第三者であったからに他ならない。 当時まだ人種差別が公然とし、白人プロデューサーは搾取する側の人間であった時代。毎夜、白人が入り込むには危険を伴う、ハーレムの奥まで足を運び、若き才能の発掘に出掛けていた。 ソニー・ロリンズの言葉がある。
また、ホレス・シルヴァーも、こう言っている。
また、彼は画期的な制作方法をとった。普通大手レコード会社の録音風景といえば、机上の白人プロデューサーの指示により、スタジオに集まったミュージシャンたちが演奏し録音して、お金をもらってハイ終わり。プロデューサーの顔などみた事もないミュージシャンがほとんどで、ギャラは時間拘束料となっていたので、それはテキパキと行われ、一発勝負が多かった。そんなところでミュージシャンたちが迫真のパフォーマンスを発揮できるはずもなく、そこからは、今現在売れそうなヤワな音楽しか生まれない。 それに対して、ライオンは最初の録音の時から違っていた。 何といっても、自分にとって雲の上の存在であった、憧れのミュージシャンたちの音楽を録音できるのだ。ミュージシャンたちがリラックスできるようにと、食事や、時には酒まで用意した。そして、本番の前には、ギャラを払って二三日のリハーサルを行なったことだ。このような、ミュージシャンの為を思いながら良い音楽を追求する姿勢に、明日のあてもない若き黒人ミュージシャンたちは意気に感じ、その心に精一杯の演奏で応えた。そこでライオンとミュージシャンたちは、納得のいく音楽を録音することができたのだった。 これが結果的に、ブルーノートの革新的で、いつまでも古びないレコード芸術というものを作り上げるに至った原因であると思う。 ジャッキー・マクリーンの証言がある。
そして次は、ニュートラルな精神を示すライオン自身の言葉だ。
そのようにして、新しいジャズの世界を切り開いていったライオンとウルフであったが、50年代に入り最高の援軍が現われる。 孤高の録音エンジニア「ルディ・ヴァン・ゲルダー(RVG)」と、ジャズが聴こえてくると称されたジャケット・デザイナー「リード・マイルス」、彼らの参加である。 RVGは、元々検眼士であったが趣味が高じて自宅の居間を録音スタジオに改造してしまっていた。音楽的な知識はまったくなかったが、ライオンの指示を忠実に音として記録する能力はピカイチで、それは「ブルーノートの音」として未だに追随を許さない。現に、噂を伝え聞いた各大手レコード会社もこぞって、RVGのスタジオを使うようになるが、ライオンだけには特別な敬慕と忠誠の心で仕えた。 そして、リード・マイルス。若き公告会社の社員であった彼は、自らライオンに自分のジャケットデザインを売り込みに行き、デザインもさる事ながら、人柄が気にいったライオンは直ぐに採用を決め、その後ブルーノート黄金期のデザインを任せる。とはいっても、RVGと同じく、自分の構成し録音した音楽に対するデザイン上のアイデアは全てライオンが指示し、リード・マイルスはそれに対して良い意味で期待を裏切るデザインで返した。 白人による白人の為の「スイング・ジャズ」に飽き足らなくなっていた才能ある黒人若手ミュージシャンたちが、一日の糧を得る為の仕事を終えてハーレムの奥まったクラブに集まっては、自分たちの本当にやりたい音楽を追求していた。ライオンによって見出され、録音の機会を与えられ、時に生活を支援して貰っていたミュージシャンたちのその音楽性は元より、RVGとリード・マイルスというこの二人の参加を得るに及んで、ブルーノートの創るレコードは、総合芸術として花開き、後に続くレコード会社のモデルとなる。 音楽的には、ビ・バップからハード・バップ、そしてクールへと進んでいく訳だが、時代の先端を行くばかりでなく、新しい時代を切り開いて行ったのである。そして、そこに流れるライオンの熱い思いは、《自分が聴きたい音楽を録音する》という一点に凝縮され、そのポリシーこそブルーノートが多くのファンから受け入れられる最大の要素となったものと思う。 生活上では、あまりの仕事関係への打ち込みで生活を省みないことからロレインとは、ほどなく離婚することになる。 ただ、誰からも憎まれない人懐っこい彼の性格上、離婚も憎しみ合ってのものではない。三日三晩も音信不通で帰ってこない、ようやく帰った夫に理由を聞くと、ソロニアス・モンクと一緒にバド・パウエルの所に行っていたという。惚れ込んだミュージシャンたちとは、生活までも一体化してしまう彼の徹底振りに、妻も飽きれてしまう。 ロレインの言葉
その後しばらく、ウルフとの二人三脚で切り盛りするが、そんな状態を見かねて、知り合いのジャズが大好きなルースという女性が手伝に来る。彼女は丁度DJの職にあぶれたばかりだった。 男二人所帯はルースの内助の功によって、益々プロデューサーとカメラマン兼経理担当として励んでいき、世界的なジャズレーベルとして会社を育て上げたのだった。設立時から変らぬ自転車操業であったが、特に50年代後半から60年代にかけて油の乗りきったライオンは、まさに怒濤のレコード製作を続ける。その頃、年間55枚以上のレコードを録音し、発売したのである。考えても見て欲しい、一年は52週しかない。つまり、ライオンは毎週毎週一枚以上のレコードリリースを行なったのである。ただ録音して発売するだけではない、すべてが今までに無い音楽を生み出すべく、毎夜毎夜仕事を終えて街のクラブにこれはといったミュージシャンを聴き歩き、交渉し、その相手を活かせるような他のメンバーを組み合せ調整し、例のとおり、二三日のリハーサルを行ない、飲ませ食わせしながら、ハッキリとしたイメージを構築し、ミュージシャンたちと、RVGおよびリード・マイルスに伝え指揮し、製作して尚且つ、配給する訳である。日々創造の苦しみと録音の悦楽を味わった生活、一日の休みもなかったであろう。このような本人にとっては楽しくてしょうがないことでも、体が続く訳がない。心臓を悪くしてしまう。 こういうライオンも、とうとう1966年、大手レコード会社「リバティ・レコード」にブルーノートを売却する。 そこでようやく肩の荷を下ろしたかのように、ルースと正式に結婚したのだった。しばらくリバティで仕事をするが、大手レコード会社のシステムはこれまで一人で決めてきていた彼にあう筈も無く、体調を心配したルースの意見で完全にジャズの世界から身を引くこととなる。ライオン59歳。 その後1989年1月6日「バードランド」で開催されたブルーノート創立50周年記念パーティーで人前に現われるまでの20数年間、ライオンとルースは二人だけの隠遁生活を送る。完全に忘れ去られたばかりか、もう死んでいるものと思われていた。 当日、バードランドに現われた彼を最初に見つけたロン・カーターは、「あなたは、ひょっとして世界でもっとも偉大なプロデューサーでないですか?」と声を掛ける。この一言で、会場全体の目がライオン一点に集まったことは言うまでもない。かつて育て、今やスター・ミュージシャンとなった者たちに囲まれもみくちゃにされる。 その時のライオン夫人ルースのスピーチはこうだ。
実は、この時の感動は、太平洋を越えた所でもっと大きな感動の渦を巻き起こす。当日の50周年式典にはるばる日本から、三人の若者が参加していた。 ニューヨークに留学経験のある整形外科医、日本テレビのディレクター、そして50周年に当たり日本での版権を得た東芝EMIのプロデューサーである。当のパーティーの後、このまま帰国するのはどうしても無念だということで、翌日、ルースから夫の体調を気づかい止められていたインタビューを敢行する。ライオンにしてみれば、驚きと共に不思議な気持ちであった。自分が20数年前に作ったレコードを、極東の島国でこんなに熱心に愛してくれる若者がいるということが。ライオンは、自身の若き日の熱情そのままの、このはるばる日本から来た若者を前にして、予定の時間を遙かに越えて自身の生い立ちから淀みなく話し始める。 (終わり前には、ルースに見つかりライオンはじめ全員がその場で叱られるが、ルースもこの日本の若者たちの熱意に負けて同席し、ライオンと共に話し始めたのだった) さて、帰国後、日本テレビ主催の『第1回 マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル・ウィズ・ブルーノート』が開催されることになる。もちろん、この三人の画策である。企画がスタートしたものの、目玉として考えていた「ライオンの特別ゲストとしての招聘」が中々進まない。心臓病が悪化していたライオンを心配したルースの反対である。しかし、ライオン自身は、隠遁生活を始めてこの方、いつでもルースの言うことには従ってきたが、今回ばかりは最初から「行きたい」の一点張りを通した。 ようやく日本に着いてからは、先の整形外科医が昼夜を共にして体調を管理し、無事フェスティバルの初日を迎えることができた。 当日、ライオンがステージに歩み寄った瞬間、数万の観衆は、怒濤のような歓声で迎えたのだった。 ・ ・・帰国して半年後、アルフレッド・ライオン逝去。 (79年の生涯を、最期に極東の島国で熱烈な歓迎を受けて世を去る) 1908年生まれ、今年生誕100周年である。 ※ ルースからの感動的な礼状が日本のスタッフに届く。 (ライオンの残してくれたものに感謝をこめて終わります) |