映画的想像力について
真武真喜子
静止画像だけど、観る人が動くことによって、動画のように見えてくる。それはパラパラ漫画や早送りのスライドショウのような視線の流れのことを言っているのではない。それにしては、石川卓磨が提示する画像の数は圧倒的に絞られすぎている。まるでさわりを見せて、物語へ観客を誘う映画のスチール写真と言ったほうが近いかもしれない。しかし映画のスチールは、キャッチコピーやあらすじとともにヒトの目に触れるので、観客はある程度の言語情報とともに物語の展開を予感するものだ。石川の写真は、そうではない。まるで外国で、字幕もなければ吹き替えもない映画を観ているかのよう。いやそれさえも違う。音があれば、たとえ言葉の意味はわからなくても、声の調子や背景の音楽、騒音などから状況を判断することも可能だ。視覚情報のみに頼って、まさに想像するしかない。観る人の想像力の中で、一こまと一こまの間に隠された像を観る人がそれぞれに補填していく。写真に撮られていない場面を観る人が思い描くことで、流れがつながっていく。
完璧なコマがそろっていないのと同じく、筋書きは完成されてはいないはずだ。石川は映画監督のようにあらかじめ得たイメージをプロットとして組み立てながら、撮影を実行していく。ただしそれらは間引きされた映像として、物語が曖昧なかたちで立ち上がるように仕組まれているのである。石川が映画的想像力を駆使して、写真を構成するのなら、観るものにも、その同じ類の想像力が要求されるだろう。
このような映画的想像力でギャラリー空間を充たしてきた石川は、これまではわずか数枚の写真によって、それを実現してきた。ホワイトキューブの中の数枚の写真が、確実にその空間を劇場に変容させるとしたら、作者石川と観客の映画的想像力によって相乗作業が巧みに遂行されたことになる。青森では、これまでになく少ない制作時間と、展示効果が期待できるわけではない仮のギャラリー空間という限定条件によったのか。アートとして展示される写真の通例を裏切って、L版と呼ばれる小さなサイズのプリントが窓を除く三方の壁にまるで手当たり次第に並べられている。この会場へと誘引したのは展覧会の始まる前に、これも映画の広告そっくりに作られた一枚の写真入展覧会ポスターである。ポスターの写真は、ドイツ表現主義の映画を思い出させるやや古典的風合いを帯びていて、地面にうつぶせに眠る主人公の表情は、演出過剰といってもいいくらい雰囲気あり過ぎ!である。石川の写真の一枚一枚は、80年代に「コンストラクテッド・フォト」と呼ばれた潮流に与すると言ってもよく、被写体の人物やその姿態、携帯品、背景などすべてが虚構世界として演出されたものである。今回、前もって構想した夢遊病者の主題に最適な俳優(s氏)を得たことは、石川の青森での作品に成果をもたらした重要な一因であろう。
さらに展覧会のタイトルは「夢遊病者の夢」だ。写真の雄弁さにも増してタイトルそのものが想像力を煽るではないか。「夢遊病者の夢」とは、まるで「私は私を夢みる」と同じ同語反復性、主客同一性の構造をもつ。夢をみていることが夢なのか、それは夢遊病者が見ている夢か、はたまた夢遊病者になる夢をみるのか。「蝶になった夢を私がみたのか、あるいは蝶が私になった夢をみているのか」という荘子の胡蝶夢の世界がここにある。
石川は、この主客交替の論理を「映画の文法」と呼ぶ。たとえば小説では、語る人称は物語を通して一致していなければならないという暗黙の了解がある。ところが映画の、あるいはカメラのレンズの人称は場面に応じて替わっていくものである。私が見ているその場面の中に、見られる私が登場する。青森での滞在制作「夢遊病者の夢」は、前述したように、写真一枚の大きさ、提示数や展示空間の構成において、これまでの石川作品としては、完成度の低いものかもしれない。ただし映画の文法を写真に応用するという石川の制作理念の本質を具現化したという意味で、石川の実験的な作品となることだろう。そのなかで重要な蝶を演じたs氏に喝采。
(ACAC学芸員)
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