naca npo法人アートコアあおもり
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藝術商店街満天星屑

橋本尚恣

略歴
1957 北海道函館市生
1985 東京芸術専門学校(T・S・A)卒業
1996 AURA版画工房(銅版画)開設

2006 橋本尚恣 版画展「孤独な浮力」   田中屋画廊/弘前
   橋本尚恣 版画展    コーヒーショップpao's/青森
   橋本尚恣 版画展「浮力の実」   ギャラリー青城/仙台

アーティストのステートメント

藝術商店街満天星屑

私は版画という手法をその中心に 据えて制作していることが多い。普段その版画 は額装され展示される。今回の企画ではその版画に商店街という素材も組み 入れることで「版画と街 あおもり」を想起して行動してみた。版画は複数刷る事が前提としてある。もともとそういう考え で産みだされた技術でもある。そこで今回は商店街の中に刷り上がった版画を遍在させたり集中させるという作業を行なった。 また宗教的な意図は持ち込んでいないのだが版の形を一般的な「おふだ」に倣ってみた。美術の作品制作などに込める思いと 信教の自由。何かを信じる行為には美術と宗教の両者に地続きなものを感じている。特定の宗教とは無関係に制作しているが、 そのことで多少の警戒とためらいのあったことは今回の作業を通して感じさせられた。
商店街の店先に貼らせてもらう形で点在させた「おふだ」は10月15日現在で三十三カ所を数えた。(偶然だがおふだと 三十三カ所というキーワードは巡礼を連想させる)私はこれら個々のおふだを点と看做しその点を繋げ、あるいは線の交差 としての「商店の街並」という姿を思い描いている。この場合には「おふだ」そのものよりもその点在する場所の総体とし ての街並を作品と看做したい気持ちが働いている。
貼る際には戸別に伺い頼んでいる。了承してもらう上で店側の意思も関わる。私にとってこの同意は一緒に何かを共有 しているのではないかという漠然とした共犯意識を生んでいる。おふだを貼ること=協力であり共謀であり私的には密かに 布教でもあるかもしれない。(美術の布教だろうか?)重ねて言うが宗教ではない。貼る事のご利益もうたってはいない。 美術への加担というよりも私の作業へのご協力とご理解であると私は曲解しながら深く感謝している。
同時に松竹会館の正面二階ガラス窓を数百枚のおふだで塞ぐように配列した。同じ版から刷られる版画は少しの刷り加減 で様を変えて刷られ(同じに刷る技術 がないともいえるのだが)その1枚づつの刷りむらや時に失敗刷りも含めて「全部で ひとつ」として配置して見せることを考えた。三十三カ所とはまた別である。別院か本尊、本殿のようだという感想も聞いた。
これらおふだは見上げる場所でもあり普通に気付かれることは少ない。見せることよりも一連の作業をする上で商店主と 私の関わりしかそこにはないのかもしれない。今回の展示は私にとり「版画と街」の最初の手がかり足がかりであり自分にと って普段と違う版画の形態に踏み出す事の序章と思っている。会期終了後も一部の店主のご理解とご協力でそのまま継続して この「おふだ」は貼り続けさせていただくこととなった。このプロジェクトがゆっくりと今後も醸成する かもしれない可能 性と様相や受け取り方の変るかもしれない行く末を確認したいと思っている。
関係各位に感謝をこめて。

 

橋本尚恣は版画家ではないのだけど
真武真喜子

絵画とは何か、版画とは何か、という疑問をこんなふうに置き換えてみたらどうだろう?絵画はどこにあるのか?版画はどこにあるのか、と。そうすればいきなり絵画や版画を見る世界が広がっていくような気がする。美術館やスタジオの中に収まっていたのは、はるかに古い話だ。それは誰かの頭の中にあり、身体の中にもあり、そこから眼を伝わり、手や足を動かし始め、外へ出かけて行ったりもする。「上を向いて歩こう」がかたちになったのも、そんなところから始まっているかもしれない。アートは街に出て、ヒトや環境と関わり、不定形に広がり、おしまいに消えていくのだ。そして、かき混ぜたり、掻き立てられたりした人々の記憶に残っていくのかな。
青森市内から参加した橋本尚恣は、ずいぶん以前から、今言ったように、絵画は、そして版画はどこにあるのか?と探し続けているアーティストである。美術の学校を出てしばらくは絵画の作品を発表してきた橋本が、この十数年、版画作品に集中して制作、発表を行なっているのは、おそらく版画の中にある絵画を見つけようとしているからだろう。そして同時に版画の外に潜んでいる版画や絵画も見つけていくことになったのではないか。
これまでに橋本が発見した版画には、地面に敷いた紙の上にいろいろなものをばら撒いたままロードローラーで、押し潰していく「ミチバタ版画」というものがある。自動車のタイヤや自転車の車輪の軌跡を紙にとどめて版画に見立てたロバート・ラウシェンバーグや吉原通雄も思い出すけれど、ミチバタ版画は、ロード・ローラーをプレス機代わりにするのだから、もっと核心に近いではないか。しかも多くの子どもたちが参加して共同で制作するところなども、複数の介在者によって成立した、版画本来のプロジェクト性も感じさせた。他者を介入させる版画の着想は、さらに膨らみ、図像の余白に観客を立たせ、画面を通過する要素として採りこむという作品も何度か実現した。
商店街を舞台にした今度のプロジェクトでは、橋本は実用的にして実世間的ではないおふだのなかに版画のそれを見出した。このおふだの位置づけは微妙である。紙に刷ったものという意味で、また開運を告げたり、願い事を伝えたりという性格によって、おふだは十分に版画のメディア性という本質をになっているのだから。ただし世間一般のおふだがもっている宗教色をまったく遠ざけるために、橋本製のおふだは、神社で交付されているようなものの生真面目さが払拭され、洒脱な飾り物性を纏っていた。しかも書かれた文字は「藝術商店街満天星屑」と、ご利益の期待とは無関係なものである。満天の星を見上げるように、商店街の店先を廻る観客は首を軒先に向け「上を向いて歩く」ことになった。展覧会のタイトルとも符合するなんて、よくできた話ではないか。
この、まるで冗談のおふだを、橋本は大真面目に商店街で配布して廻ったようだ。配布というよりは、「軒下を借りる」ために、おふだの主旨を説明し願いを請うわけだ。文字が中心のこのおふだは、先に触れたおふだのメディア性とは別の意味で、プロジェクトそのものの情宣的役割を果たすことになった。こうしてプロジェクトとしての版画が成立した。橋本は版画家ではないのだけれど、このように、いたるところに立ち上がる版画の可能性を見つけ出しては、外へ外へと版画を連れ出していく人なのだ。橋本がやっていることを人々が版画と認めなくなった頃、実は版画家なのだけれど、と今度はつぶやくのかもしれない。

(ACAC学芸員)