naca npo法人アートコアあおもり
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S10

藤井光

略歴
1976 東京都生まれ 
パリ第8大学 第三期博士課程DEA(美学・芸術)卒

2007 遊戯室
   大阪府立現代美術センター
   STUDIO CUT102

アーティストのステートメント

S10

映像を見る時、テレビなりスクリーンなりの機械を必要とするが、それらの機械が置かれた「家」「映画館」「美術館」も 鑑賞者の目にはぼんやりと映っている。フレームの外にぼんやりと映っているこれらの残像が作品に及ぼす影響は、はか りしれない。平たく言えば、どこで、観客が作品に出会うのか?同じ作品でも場所が変われば「見られ方」も異なり作品自体 に「出会わない」可能性も考えられる。そのため、作品が置かれる物理的・文化的基盤を検証しプロジェクトを立ち上げる。
今回、フレームの外にある空間は人々の移動を目的とするスペースに商 店がシステマチックに建ち並ぶ「商店街」である。 そこでは無数の「イメージ」が移動する人々を減速させ、立ち止まらせ、店舗へと誘う。 「商店街」の表層はこの機能的な イメージのモジュールで構成されており、それを支えているのが「売る」ことを目的とした「商品」の存在で ある。 そのため、私がまず行なった作業も他の店舗の経営者と同じく「商品」を明確にすることだった。
何を売るか?この問題にアートが概略的に語るのは難しい。しかし、この問題にクリアーな回答を出さない限り移動する人々 の行動パターンに関わることは望めない。そこで、私が担当した空き店舗では「不安によって人々の想像力に語りかける 物語」を「商品」とすることにした。
私が担当したスペースの大きさは他の店舗と変わらず、時間にして歩行者との出会いは僅か3秒程である。その僅かな時間 に人々の意識の中にこの物語を届けるために選んだ「イメージ」が「S10」である。

ところで、私も含めこの文章を読んで下さっているすべての方々に考え ていただきたい問いがある。
この「商品」は何と「交換」されたのか?

 

藤井光 回る回るカメラは回る
黒岩恭介

ヴィデオ・カメラはレンズの向こう側にある景色を、動きを含めて写し取る装置である。レンズが移動すれば、レンズの向こう側も相対的に移動する。撮影された映像はレンズの移動を反映して運動することになる。今回藤井が撮影したのは雲谷の森である。固定されたカメラは上空に向けられ回転する。その回転する森の映像が藤井の持ち駒であった。さてその映像をどう見せるかが、商店街をテーマに設定された今回のプロジェクトで、解決しなければいけない課題となる。道行く人々が空き店舗の中に体を移行して作品を見てくれることなど鼻から考えていない作家は、道行く人々がそのまま作品の鑑賞者になる方法を選んだ。通りに面した空き店舗のウィンドめがけて中から映像を投影し、道行く人々が歩きながらでもそれを眼にすることができるという仕掛けである。空き店舗は、一種、暗箱と化した。入口のドアは土の壁で遮られ、一部土が歩道にあふれるように設置された。森の映像と土、まあ違和感のない取り合わせである。しかしこのインスタレーションには難点が二つあった。一つは技術的レベルの問題だが、昼間は外が明るくて映像を投影しても効果が上がらない。それを解決するには、出力の大きなプロジェクターを使用するか、投影を日没以降に限定するかである。実際このプロジェクトは日没から日の出までの間に限って稼働したのである。もう一つの問題は、半開きの、土で遮蔽されたドアの隙間から暗箱内部が見えてしまうことである。このやや興ざめな環境を解決するためにはドアの隙間を塞げば済むのだが、作家はこれをそのままに放置した。舞台裏が覗かれることを含めて作品としたかったか、あるいは、面倒だったか。
空き店舗内にモニターを並べて、ヴィデオ・インスタレーションとしてこの映像を作品化するという、平凡な選択をこの作家がしなかったことに、僕は好感を持った。今回のように地方都市の商店街というアートとは無縁の、むしろアンチ・アートの環境を舞台としてアートを展開するという、さまざまな制約が課せられた状況下、作家がどういった対応を取るかというセンスにおいて、藤井は十分それに応えるセンスをお持ちのようであった。

(naca理事)