naca npo法人アートコアあおもり
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naca アート井戸端会議

第35回アート井戸端会議
「鈴木正治の思い出」
斎藤葵和子(鈴木正治と輪の会 会長)
2008年07月06日(日)18:00-
おきな屋2階(青森県青森市新町2-8-5)

鈴木正治さんのこと
斎藤葵和子

 思いもかけず、教会で鈴木正治(1919〜2008)さんについておはなしすることになった。
 鈴木さんは、四月十九日に亡くなられたので、今日、五月十一日は、”みなのか”を過ぎて次の日ということになります。
 八十八歳と五ヵ月を生きた鈴木さんでした。昨年十一月に八十八歳のお祝いを古川記之さんの音頭で催したばかりでしたから、 まだまだ大丈夫だと思っていました。

   教会でおはなしするについて、長い間親しんできました、尊敬する芸術家としての鈴木さんの全体の姿というものに、思いを馳せてみようと思っています。
 鈴木さんが小さいときに、ふとんの中で寝ているときにいつもきいていた、肥え汲みの人のあいさつ。それが忘れられないと、何度それをきいたことか。
 肥え汲みのひとは、いつも来るひとで「お世話になってありがとうございます。くませてもらってありがとうございます」と、それはていねいにていねいに頭を下げて言うんだヨ。小ちゃいときに、ふとんの中でそれをきいていたオレは、なんてていねいで、あたたかい言い方だろうと思った。こんなひとになりたいなあ、といつも思った。
 肥えを汲んでもらっているのはこっちなんだから、こっちがそう言わなくちゃいけないのに、反対なんだよね。その汲んだ肥えを、その人は畑に使うんだヨ。うちは汲んでもらってありがたいんだから。ウチで汲んでもらっているんだヨ。こっちの方が、ありがたいでばね。やさしくてね、あたたかいんだ、その言い方がね。ああ、こんな大人になりたいなって、思ったものだった。いいひとでね、夫婦で二人で来るんだ。
 くり返して、何度聞いたろう。相好をくずして満足気に話すそのひとを見て、わたしは不満であった。
 そのころから、ひと昔前あたりに、鈴木さんはかなりの数のエッチングを制作している。ファンなら誰しも熱望した秀作である。一本のマッチ棒、一本のヘアピン、白黒ゼロ号のただそれだけの作品なのに、なぜ、こんなにも惹きつけられるのかと、見入ったものだった。「脈」展で私は見た。
 そんなに良いものをつくるそのひとが、なぜ、肥え汲みなどと私は合点がいかなかった。芸術家が肥え汲みにあこがれるとは、何たることか ― である。素晴らしい哲学者や、歴史上の人物ならばわからないでもないが。
 「孫太郎虫」という木彫がある。腰の曲がったおじいさんが、足を曲げて歩いている作品だ。いいなあ。孫太郎虫、大好きなんだ、と笑う。なんで、こんなおじいさんの彫刻なんかつくるのか、ちっとも良くないじゃない。私は笑えなかった。
 読売アンデパンダンに出品したというペン画の「合唱」という作品がある。細かく細かく、細かくてどうしようもなく、拡大鏡で見なければとても見られないその顔が、無数に画いてある。素晴らしい花とか、風景とか、そういうのでなければアンデパンダン展に出品しても目立たないんじゃないの、と私は言ったと思う。
 さまざまな人の思惑をこえて表現したかったもの ― それは、何だったろう。思い出そうとしてみても、一度にたくさんは思い出せない。

 鈴木さんは新町小学校へ入学した。そのころの家は今の千葉室内のあたりだったと言った。お父さんは大町のアカジュウの番頭だったという。大町のアカジュウのその跡地は、今もある。ここだ、ここだよ、ほれ、いいなあ ― と、いかにも嬉しそうであった。
 周辺にはお寺があり、仏師が仕事をしているのが見えた。飽かずに見ていて、暗くなるまで見ていたものだという。とにかく活発に遊ぶ子供で、走りまわって遊んで、ご飯だよと呼ばれるまで遊びほおけていた。はっ、と気がついたとき青森中学の試験に落ちていたのだ。よほど成績に自信があったのだろう。合点がいかなかったらしい。浪打の方の予備校らしきところに一年通った。自分の同級のものが青中の制服で通うのと会うのが本当にいやだった。遅れて青中に入ったら下級生になる。それだけはどうしてもいやだった。それで弘前工業へ行くことにした。弘前工業機械科。そこに絵の教師として工藤繁造先生がいた。鈴木正治に彫刻を刻印した運命のひとである。

 鈴木さんは、気持ちの中にすきっとしたものを持っていて、教会の正面にある十字架を見て、「これが最高なんだ。人間が両手を広げてまっすぐにすると十字の形になる。この形が人間の最高の形で、あらゆる造形の最高の形だ。キリストはこの形で死んだんだ」と言いました。
 鈴木さんの話を聞こうと、九州の若い彫刻家たちが集まるというので呼ばれたことがありました。すべて手配し、スライドも作り、「何日の日に来てください」と言われていましたが、直前になって、「オレ、行かないよ」とドタキャンしました。それで私たちもずいぶん慌てて、「どうして行かないの。遊びに行くようにしていったらいいのに」と言うと、「オレ、そういう話できないよ」と。それで連絡すると、「そんなのひどい。男じゃないよ」と言われ、鈴木さんは、「オレ、男やめるよ」と言って、企画していた勉強会も取りやめました。
 教会で、私が鈴木さんのことをお話しするのを、鈴木さんは嫌がっていると思います。「またそういう風にオレのことを言って」。鈴木さんは、自分のことをいろいろ言われるのが好きでなくて、自分でもそういうことはしませんでした。ただ、ここの教会の前に杏の木の作品があり、みんなもとても好きです。その作品のことで鈴木さんに質問すると、「鈴木和男牧師がオレにやらせたんだ」と喜んでいました。自分の作品は、ほとんど好きだったようです。
 鈴木さんは失敗ということがありません。水墨の紙をどなたかが50枚持ってくると、ほとんど次の日までに50枚仕上げて渡します。何十枚紙を預かっても失敗しません。全部完成品で描き上げます。「下書きをするのですか」と聞かれたりしますが、そういうことはありません。描きたいことが沸いてきて止められなくなるのだそうです。
 一昨年だったか、金沢から漆を塗る職人の方が訪ねて来ました。その人は、仕事をしていく上で、 鈴木さんに会わなければやっていけないという気がしたそうです。それで会いに来たのです。「鈴木さんがいる限り、 青森は聖地だ」って言いました。

 鈴木さんは逝ってしまいました。4月23日午後、鈴木さんをみんなでお墓に入れました。私も知らない若い人たちの去りがたいような心情がまだどこかに残っています。それがまた青森のアーティストたちを動かしていくような気がします。
 鈴木さんが熱が出たり、体調が様々になってきて、「鈴木さん、死ぬのかなあ」と思うようになった頃、私も目が見えなくなってきました。私は鈴木さんにお願いをしました。「私、目が見えないんだから、鈴木さん、天使になったら、一緒にお祈りしてね」と。眠っていた鈴木さんが目を開けて、「オレ、目が見えるよ」と言いました。鈴木さんは何でもしゃべれば「よし、オレがやってやる」と言っていたのが、そうではなくなりました。まさか死なないだろうと思っていたのに、神様は生きているものと死んでいるものとを裁かれます。
 自分の悲しみというものが、教会に来ることによって悲しみは希望に変えられていくという実感を、 私は持ちたいと思っています。鈴木さんは確かにいなくなりましたけれども、鈴木さんは青森の希望です。 これから私は、鈴木さんという人についていろいろな人に、折りあらば語っていきたいと思います。貧しさを好み、 人の評価を嫌った鈴木さんが、最初に肥え汲みに憧れたということが、鈴木さんの人格の一つの力であったのではと 思います。今、神様からすべてのカーテンを下ろされて、「ああ、よかったなあ」と感謝しています。

左の文章を基本にして、斎藤さんは鈴木正治さんの人柄について様々なエピソードを交えながら、懐かしく語りました。

講演後はお茶を飲みながら、柴田naca理事が野辺地高校時代、通信制創設50周年を記念して鈴木さんの作品を設置しよう としてできなかった話や、南高校に創立30周年記念モニュメントとして安田侃の彫刻を設置したとき、 鈴木さんが安田さんに会いに来られた話などをしました。