川柳名句集

・1997年7月18日より、私の独断と勝手な解釈で川柳を取り上げ、感じたことを書いてみようと無謀にも思いました。多分、句の作者は大迷惑だと思いますので、あらかじめお詫び致します。(敬称略)

 


1997年掲載分

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■野の涯の小さき土偶となりに行かん ・梅村暦郎

あなたは何のために生きているのかと問われて、すぐに答えられる人は少ないと思う。この作品の場合は「野の涯(はて)」の「小さき土偶」となりに行くという。こんな風に答えられたらどんなに良いだろうか。「小さき土偶」に小さいながらも希望と温もりがある。作者のユーモアだと思う。テーマは深く果てしないが妙な軽快感があって味わい深い佳品である。(1997.12.26)


■おとうとも  あねもさみしい指かたち ・伊藤ひかり

兄弟姉妹の中でも姉と弟は少し特別なような気がする。どうしても姉の方が母親的な存在になってしまうのではないだろうか。年齢がはなれていれば尚更である。お互いに独立し家庭を持ち、お互いに老いてゆく。ふと指を眺めるとすっかり細くなったような気がして淋しさを感じた時、そういえば弟も同じ指のかたちだったなあ、と懐かしさが蘇ってくる。

■向日葵の丈 弟を思うなり ・木本朱夏

この作品も前掲句に近いものがあります。太陽に向かって真っ直ぐに伸びる向日葵に弟の面影を見たという作者。少年だった弟は背が高く頼もしささえ感じたものだった。それは何年、何十年経っても変わることなく作者の心の中に生き続けるのだろう。毎年、向日葵を見るたびに「弟を思う」の表現から嬉しさと切なさがひしひしと伝わってくる。もし、弟さんが既に亡くなっているとすれば、やるせない思いがある。(1997.12.19)


■定刻に朝の男を組み立てる ・はざま みずき

先週取り上げた作品に関連してしまうと思いますが、やはり働くお父さんのこと。朝の決まった時間に起きて、ご飯を食べ(食べる時間がない方が多いかも)身支度を整え。玄関を出て、電車に揺られ会社に辿り着く。その過程を、この作品は「男を組み立てる」と表現している。勇ましいようでいて、どことなく痛々しいところもある。数十年の間これが毎朝続くのだから並大抵のことではないと思う。ある人が「下駄箱から戦闘機が飛び立つ」という趣旨の川柳を発表したことがある。もちろん本物の戦闘機ではなく、通勤のため履く靴のことである。仕事へ行くことを、戦争にでも行く心境だ、という心理を表現したものである。「組み立てられた男」は、夜遅く帰って来る頃にはガタガタになっている。家に辿り着いた瞬間に空中分解するかもしれない。そして翌朝には、再び男を組み立てなければならない。奥底にペーソスがある作品である。現代では「朝の女を組み立てる」でも違和感がないのかも。

■晩秋にテレビドラマの父は死ぬ ・樋口由紀子

この作品は少しニュアンスが違っている。父に対する愛情があると思う。テレビドラマの中の俳優が演じる父親。ドラマの中の世界なのに、父親の死は哀しく、胸が痛む。単なるドラマへの感情移入とは違っている気がする。単なる感情移入ならば、ドラマが終わればその時の感情は薄れてゆくと思う。しかし、この作品にはいつまでも消えぬ父への思いがある。ある程度の年代に達すると、親への意識も変わってくるのだろうか。上五の「晩秋に」が効果的だと思いました。(1997.12.12)


■天上を忘れて久しきりぎりす ・斧田千晴

天上‥‥空の上、天、天国、天界、あるいは神様の存在なのかも知れない。ご存じイソップ物語が題材になっているのだろう。もちろん「きりぎりす」は人間のことで、イソップ物語の教訓は何の役にも立っていない、それを作者は「忘れて久しい」と指摘している。世のきりぎりすは無謀な経営で会社を潰しても根本的な責任はとらず、社員にしわ寄せがきている状況である。ユーモアがありながら鋭い指摘である。

■踊らねば乾いてしまう影法師 ・広川てる

この作品は前掲句とは逆に切ないものがある。例えば仕事に命をかけるとまでは行かなくても、社会(会社)の中で働き続けなければならない人間のペーソスがある。殆どは家族のためでもあるが、仕事が自分の存在証明でもあると思う。作者はそれを、踊り続けなければ乾いてしまう(自分の存在証明の危機感)と表現している。そして下五の「影法師」が妙に切ない。必ずしも仕事だけとは限らず、生きること自体が踊り続けることなのかも知れない。がんばれ!!!と応援したい。(1997.12.5)


■うれしくて七つ並べる蕎麦枕 ・情野千里

お正月やお盆に家族が集まる。兄弟姉妹がそれぞれ独立したり結婚したりで離ればなれになっていれば、集まった時の嬉しさはどれほどだろう。齢を重ねてからの再会なら尚更である。この作品からは、ある程度齢を重ねた姉妹が、年老いた母親を囲んで布団を敷き、枕を並べている楽しそうな光景が浮かんだ。母を労りながら少女時代の想い出を語り合う。「昔もこんな風にみんなで寝たわね」という会話が聞こえてきそうである。それを頷いて聞いている母親の笑顔も見えてくる。(1997.11.28)


■包帯はするするほどけ少年期 ・伊藤 律

少年時代(子供時代も含む)は、よくケガをする。そして回復も驚くほど早い。誰でも経験があると思う。ちょっとした擦り傷ならツバをつけてまた遊んだものだ。現代の子供は擦り傷をつくるような遊びをするかは分からないが、ちょっとしたケガならけっこう楽しいものだった。それと同時に心のケガもよくしたものである。これは思春期に多かったと思う。それは異性に対する悩みだったり、大人になる過程のいろいろな悩みで、心を包帯でぐるぐる巻きにしていた。それがいつの間にか解けていたり、無理矢理自分で解いたりした。そんなことを何回か繰り返すうちに、包帯は必要なくなってくる。この作品の「するするほどけ」という表現が、少年期ならではの軽快さがあって作品が生きてくると思う。ある程度の年代になってからこの作品に触れると甘酸っぱい想い出が蘇る。(1997.11.21)


■空蝉を胸に泣こうか笑おうか ・西 山茶花

空蝉は蝉の抜け殻ですが、その姿といいますか形といいますか何となく切ないものがあります。自分(人間)にとっての来し方と重ね合わせてしまいます。それぞれが生きてきた過程で置き去りにしてきたもの。自分の成長過程を見るようで少しは感傷的になるのかも知れません。しかし、作者の表現はそれだけにとどまらずに、「泣こうか笑おうか」と言っている。これはある種のユーモアであり、「空蝉」という重いイメージを見事に吹き飛ばしてしまっている。「泣こうか笑おうか」と言っているうちに、もうどうでも良くなって大声で笑ってしまうような不思議な雰囲気がある。切なさがちょっぴり利いているから胸にジンとくる。(1997.11.14)


■水音は深夜聞こえる汝が身体より ・清水かおり

夜が更けるにしたがって神経が研ぎ澄まされてゆく。闇に慣れてきて、音に敏感になる。隣に横たわる愛しき人の身体から聞こえる水音は血の流れる音だろうか‥‥。命の流れとも言える、体内の川の音なのかも知れない。動脈という激流があり静脈という清流がある。汝と呼ぶ人との距離はもはや無くなって、二人は闇の中に埋もれている。それを感じ取った作者の繊細な内面の静寂を思う。多分、作者自身も自分の体内の水音に気付いているのだろうと思う。━━《体内の葦は父より継ぎし青 ・かおり》、この作品も内面の発見だと思う。父親との絆を葦という脆さや弱さ、あるいは毅然とした父の姿に重ね合わせている。そして青という幽玄な世界をも併せ持つ。作者を通じて父の後ろ姿が見えてくる印象深い作品である。(1997.11.7)


■牽くかたちしたまま凍る かぶと虫 ・瀬々倉卓治

子供の頃、よくカブト虫に何かを引かせて遊んでいた。その姿はとても力強く、父親に思いを重ねてもいた。この作品は、そんな父親像から連想して過労死にも見えてくる。現代社会を鋭く突いていて川柳の持ち味を活かしている。《ひと生まれ 手枷足枷陽をはじき 卓治》、この作品も現代社会の状況を見事に語っている。生まれた時から人生のレールを敷かれた人間への哀しみを手枷足枷と表現している。《少年の試練ひとりの父を焼く 卓治》、子供が初めて触れる社会人は父親だと思う。父親から色々なことを学び、やがては父を越えようとする。そしていずれは父を看取る時が来る。また自分も父親になり、それを繰り返す。父と子の永遠のテーマなのかも知れない。(1997.10.31)


■そんな気もこんな気もして待呆け  ・神 手津王

最初この作品に出会った時、若い女性の句かなと思いました。しかし、その予想は大きく外れ、作者が大正十年生まれ、そして昭和五十四年に他界されていることを知った。この句はほとんど説明は不用だと思います。そのまま感じて頂ければ良いと思います。こんな純粋な気持ちで人を待つのもいいもんだなあ‥‥。

■鉄塔の冷たさとなり秋深む  ・神 手津王

そして、こんなキリッとした作品もある。屹立する晩秋の鉄塔の、身を切るような冷たさを我が身に感じた作者は、鉄塔と同じく孤独という冷たい風に晒されていたのかも知れない。(1997.10.24)


■喉仏あたり男の暮色かな  ・桑野晶子

やはり喉仏は男の象徴なのかも知れない。作者は男の喉仏に暮色があると言う。男は喉仏から老いてゆくのだろうか。ポコンと出っ張った喉仏が、男の生きてきた人生を語っているのだろう。それを異性である作者の優しい眼差しが発見したのである。この作品からは、何かあたたかいものを感じる。労りの眼差しを感じる。男が表現する喉仏よりも、女性が表現する喉仏の方がより深遠なのかも知れない。そして喉仏の作品の中で次の作品も強く印象に残っている。

■思ひつつあれば哀しきのどぼとけ  ・荻原久美子

男を思いつつ、男の哀しさも知っている、そんな優しさやぬくもりのある作品である。それ故、もし自分に喉仏があったら、きっと哀しいだろうなと作者は思ったのかも知れない。前句とはとらえ方の角度は違いますが、どちらの作品も共通点があって体温があると思います。(1997.10.17)


■父が逝く籠いっぱいに春野菜  ・樋口由紀子

逝く者と残される者との対比が表現されていて、作者の父に対する深い思いを痛感した。「籠にいっぱいの春野菜」は、死とは対照的な「生」を感じさせられる。父の死に直面してもなお、残された者は春野菜のように「生」を意識して生きて行かなければならない。自分という「生」が春野菜のように活き活きと新鮮であればあるほど、父の「死」に対する思いが切なく悲しいものとなる。それを直接的に言葉だけでは表現できないが、一つの作品にすることで言葉以上の意味を持ってくる。(1997.10.10)


■評判はいかがでしたか僕の死後 ・水瀬片貝

1994年に出版された『信濃川』という作者の遺句集の一番最後の一句である。作者の闘病中の作品である。既に自分自身の病状を覚っていたのかも知れない。この句の他にも、病に立ち向かう作品が沢山発表されている。自分の死後の評判は如何でしたか?と言い切るユーモアは、とうてい凡人には表現できない。本当に自分の死と向き合った時に、そして、それに真正面から向き合った時に初めて生まれてくる魂の言葉だと思う。そして作者は、生涯、靴磨きという職業に誇りを持っておられた。<靴みがき雪はタチツテトと積もる>片貝。かつて仙台駅頭に、一人の川柳作家がいたことを忘れることができない。(1997.10.3)


■どこまで家族どこまで他人冬の虹 ・吉田州花

子供が成長し独立してしまうと親としての達成感?という喜びと、ある種の寂寥感が生まれてくるのかも知れない。子供は血のつながった家族であり、また、結婚によって新しい家族を持った他人でもある。親と子の、そんな複雑な心境を表現した作品であると解釈しました。それでも、澄み切った冬の空にくっきりと架かる虹のような、確かな絆であると信じている。(1997.9.26)


■人間を掴めば風が手にのこり ・田中五呂八

「掴」の文字は、原句では手偏に國の字を使用しております。お詫び申し上げます。この句は、あまりにも有名な田中五呂八の代表作である。昭和4年の『氷原』(小樽)第38号に発表とある。五呂八は新興川柳の中心的な人物であった。この句に初めて接した時、半世紀以上も前の作品と知って驚いたのを今でも鮮明に覚えている。現代の作品と比較しても作品が全く色褪せていないのである。人の心は本当に掴むことができるのだろうか。掴もうとすればするほど、風だけが手に残るのかも知れない。風が手に残る感触が現実のことのように身に染みてくる。そして風の音が手の中から聴こえてくるようである。人間のやるせない心を表現した秀句だと思う。この句は、私がここに書いた未熟な鑑賞以上に、もっと深く人間を追求したスケールの大きな作品だと思う。独自の鑑賞をしてみては如何でしょう。(1997.6.19)


■私って何だろ水が洩れている ・加藤久子

誰でも一度は「私って何だろ」と考えたことがあると思います。自分は一体何者だろう、何のために生きているんだろうと考えることは、ごく自然なことなのかも知れません。そんな作者は「水が洩れている」と表現している。自分の中の発見だと思う。作者に限らず、人間は皆、水が洩れるように日々何かを失い、あるいは何かを犠牲にしているのかも知れない。しかし、それはあまり悲観することではないのかも知れない。少しずつ水が洩れていないと、やがては自分という器が水の圧力に耐えきれずに崩壊してしまう。(1997.9.12)


■淋しさに午前と午後のありにけり ・荻原久美子

作者は淋しさにも午前と午後があるという。女性でなければ、これほど繊細な作品は生まれないと思う。午前の淋しさと午後の淋しさの表現に、作者の感受性の非凡さを感じずにはいられない。この作品の場合は余計な解釈はいらないと思う。多分、読者にもこんな気持ちになった経験がおありだと思いますので、少しの間、この作品に浸ってみてはいかがでしょうか?(1997.9.5)


■無駄だった鶴も一緒に入れてやり ・五十嵐さか江

故人の作品である。20年ほど前の作品とのこと。この句に初めて出会ったのは5、6年前だったと思う。そして、この句を一度聴いただけで、何故か耳から離れなくなった。初めてこの句に触れてから現在まで、全く色褪せない作品である。本当の秀句というものは、何年経っても色褪せないことなのかも知れない。さか江という柳号ではありますが、作者は男性である。愛する妻のことを詠んだのか、あるいは大切な子供のことを詠んだのか。「折り鶴」という祈りの心が、ひしひしと伝わってきます。愛する家族を黄泉の世界へ送らなければならない立場の、身内の切ない気持ちが「無駄だった」の言葉に込められている。柩に折り鶴を一緒に入れてやることしか出来なかった男の背中が、そこにある。(1997.8.29)


■残花手に無縁坂ゆく陽は幾条 ・片柳哲郎

無縁坂をゆく孤影が映像として脳裏に映し出される。ある種の孤独感がありますが、その手には残花があり、幾条の陽がその背を照らしている様は、一つのことを貫こうとする、或いは何かに向かってゆく力強さがあります。人間は誰しも無縁坂を一人で歩かなければならないのかも知れない。生まれる時も死する時も一人なのだから。しかし、それは哀しむものではなくて、この1句のように、力強く歩いてゆくことなのかも知れない。「残花」とは、それまでに生きてきた中での、手の中に残っている大切なものかも知れない。「作品集『黒塚』所収」(1997.8.22)


■旅鴉心を空の色にする ・杉野十佐一

故人の作品である。恥ずかしながら、この句がいつ創られたのかは分からない。数十年前だとは思いますが。「旅鴉」には男の生き様があるのだろうか。ある種の憧れがあります。そして、「心を空の色にする」で、この句の壮大さと清澄な心が伝わってきて、とても好きなのである。私自身も「心を空の色に」できたらなあと、この句を口ずさむ度に思っている。また、その度に清々しい気持ちにもなる。 実はこの句、作者の出身地である青森県北津軽郡蟹田町の観瀾山(かんらんざん)という小高い丘に句碑として立っている。この町は太宰治が「津軽」の中で「風の町」と書いてある。同じ観瀾山に太宰などの文学碑が沢山並んでいるので、機会がございましたら寄ってみては如何でしょうか。(1997.8.15)


■ひとり追う秋のてまりの遠さかな ・酒谷愛郷

この句に触れていると、僕の中で鮮明な一つの映像がペーソスをともなって動き出す。━━最初からてまりに追いつけないことを知っている。ひとりで追うことの心細さと、かすかな希望が体内を駆けめぐる。そうしているうちにも、肌にひんやりと伝わる秋の限りない透明感の中を、てまりは転がってゆく。ふと、自分は何をしているのだろうと立ち止まる。それでも何故かそのてまりは懐かしい記憶の中にあり、てまりが弾む切ない音と、肌の温もりに似た柔らかい感触が、かすかに掌に残った。ずっと昔から━━そして、追いつけないことにホッとしている自分がいる。、むしろ、追いつかないように距離を保っているのかも知れない。それは、かつて自分が大人になるために失ってきたもの、生きるために捨ててきたものかも知れない。不思議な安堵感と懐かしい温もりが、しきりに駆けめぐっている。「おーい」と声をあげて再びてまりを追いかけた。(1997.8.8)


■蛍(ほうたる)にこころ遊ばせ寝釈迦かな ・西条真紀

蛍に対する思いは人それぞれであるが、少なくとも、誰でもあの美しい緑の光に憧れの気持ちを持つと思う。そして私は、あの規則的な光の点滅は、生き物の鼓動(それを見ている人間の)にも感じられる。 作者は、体調がすぐれないことが多いと伺っている。そんな作者が、蛍にこころを遊ばせ、自身を寝釈迦に例えたユーモアは絶品である。まったく暗さがなく、穏やかな気持ちにさせてくれる作品であり、読む度に生きていることを実感してしまう、奥の深い1句である。 余談ではありますが、前回紹介させて頂いた長町一吠さんとは、ご夫婦であられる。お二人からは沢山のことを学ばせて頂いている。(1997.8.1)


■生の帆は沖にあらむか深霞 ・長町一吠

<生の帆>という生命そのもの、或いは、生きる上でのハードルを乗り越えようとする前向きな精神があります。<沖>という果てのない世界には、荒波や孤独があるのかも知れない。それでも<生の帆>には、風をいっぱいに受けて、それに立ち向かう力強さがあると思う。そして、願いでもあると思う。必ず、霞は晴れる筈である。口ずさむ度に、とても励まされた一句である。(1997.7.25)


■秋を漕ぐぶらんこ乗りは永遠に ・細川不凍

片柳哲郎氏はこの句を、心底に流れている気持ちが明晰に伝わってくる素晴らしい一句であると評している。また、ブランコを扱った句は随分読んできたが、<ぶらんこ乗り>という固有名詞扱いの句語はなかった。と、平易な言葉をこんなに新しく表現していることに感動しておられた。私も同感であり、知らず知らずのうちに暗唱していたりする。<ぶらんこ乗り>という句語に、少年時代のいろいろな遊びの想い出や、冒険心が蘇ってくる。また、人生を颯爽と乗り越える、生命の強さも感じる。そして、<永遠に>という句語から、大人になっても少年の純粋さを忘れない、そんなロマンを感じてしまう。<秋を漕ぐ>には、何となく、ちょっぴりペーソスを感じて、切なくもある。 細川不凍氏は、私の憧れの川柳作家である。(1997.7.18)


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