川柳語録集

・川柳に関わって行く上で、あるいは川柳に興味を持つ上で、先達者の言葉(名言)には興味深いものがあります。ここでは私が知る限りの先達者の有意義で貴重な言葉(名言)を紹介して行きたいと思います。週?単位で少しずつ増やして行く積もりです。一部旧仮名遣いです。(1997年12月12日)

 


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■初めの頃は、お互いに影響しあって進むものだが、やがて、これが自分の川柳だというものが次第にでき上がって、独自の方向をとる。新春の盃の中に、その頃の友を思い出している。(昭和43年1月) 白石朝太郎


■川柳は十七字だから短いとは言わない
十七字の前には何百何千の文字が頭の中に書きこまれている (昭和44年1月) 白石朝太郎


■最近、若い素質のある川柳家が目立ってふえてきている。しかも皆努力家でありよき指導者に恵まれている。成長を見まもる楽しみと共に、しんぼうの大切なことを彼らに教えられた気がする。(昭和42年8月) 白石朝太郎


■美しいのも自然、厳しいのも自然。また、楽しいのも川柳、苦しいのも川柳である。(昭和46年11月)  白石朝太郎


■川柳句会の多くは依然として昔のままである。発表される作品に変化がないのは、変化することに臆病な空気と優れた指導者が居ないからである。唯年数を重ねただけの者が頑固に居座って居て、折角の思いや自由な表現を抑圧しては旧態に引き戻しているからである。私達が文芸の中の川柳を選んだ理由の一つは自由な心、自在の表現があると思ったからである。間違った指導と気付かないで川柳句会が続くとすれば、この上なく不幸なことである。全国的には若い作家の台頭があり優れた作品活動が展開されている。彼等は旧態の川柳を知らないし知ろうとはしない。これからの川柳は、常に新たな展開があって良い。忘れられる者と生き残る者が判然とする。今を分かって欲しいと思っている。(平成21年年9月「点鐘」雑唱点鬼簿へんしゅうこうきより)  墨 作二郎


■成長期には実力以上の句が生まれるが、それを過ぎると実力だけの句よりできなくなる。人として成長が期待されるゆえんである。(昭和47年8月)  白石朝太郎


■公害日本といわれるほど、企業公害に悩まされている日本で、国語も公害を受けている。吾々は国語を公害から守らなければならない。(昭和47年3月)  白石朝太郎


■川柳を書く場合重要なのは体内で蠢いている情報と、それの取り出し方とも言える「見方」「考え方」かもしれない。それは「哲学」と言われるものと似ているような気もする。(2001.2)  むさし


■椙元紋太、遂に逝く 「年齢が違ういつまでもちがう」この句は「せんば」一月号の琥珀集に載った最後の一句だが、句境はまさに禅だ。流石である。彼も今は残り少ない旧い時代の「大正川柳」の同人であった。いま彼を慕う門下は全国に満ちている。謹んで冥福を祈る。(昭和45年6月)  白石朝太郎


■「川柳でしか出遭わないもの」他ジャンルとの交流が頻繁になるにつれ、この言葉がどこからか湧いてくる。広範囲な意味での「詩」の持つ普遍性を確認し合いながら、現代詩、短歌、俳句などとの境界線探しもいいにだが、川柳の奥底にある「何か」が気になってしょうがなく、見えぬもどかしさばかりが募るのである。
「何を描くのか」「どう描くのか」という基本的な部分に、もしかしたら答えが隠れているのかもしれないが、この基本が実は深い淵のような気がしてならない。(2007.11)  北野岸柳


■自分には才能がない、素質がないと簡単にきめてはいけない。同時に多少売れるからといって安心してはいけない。すべては、最後の一句がきめる。(昭和42年10月)  白石朝太郎


■亡父の記憶が遠ざかるときは、同じ速度で死は私達に近づく。一句を作り一句を選ぶことの重さを感じている昨今である。(昭和46年10月)  白石朝太郎


■朝の飯がやわらかだと言って、一日中怒っている男が来た。君には佳い川柳は作れないよ、と言って追い帰したが、そういう私も、佳い句を作るにはまだ遠いようだ。  白石朝太郎


■老来涙は枯れはてていたものと思っていたが、顔の形の変わるほど泣くような悲しみが、幾度も来るとは思いも及ばなかった。それにつけても川柳の深さ、むつかしさを思う。(昭和44年3月)  白石朝太郎


■年をとって好いことは何もないが、ただ一つ、己の限界を知って、捨てるものは捨て、諦めるものはあきらめて、自分のやりたいこと、やらねばならぬことに没頭できること。そして人生が多少判ってきたこと。これは幸せだと思う。だが、この幸は残光のようなもので永くはつづかぬことになっている。(昭年45和1月)  白石朝太郎


■俳句という以前は発句といっていた通り、俳諧連歌の第一句の発句である。川柳はその連歌の中の人事釈教を詠んだもので、ともに同根であった。俳人となるか、川柳家となるか、それは人間の本質的相違のようだ。芭蕉は大井川の堤に捨ててあった赤ン坊に「汝の性の拙きを咲け」といい残して立ち去った。芭蕉は立派だが、川柳は作れない人だったと思う。芭蕉の人も、句も好きで、句はもとより芭蕉に関するものならいくら読んでも飽きないが、私はやっぱり川柳を作る。(立体川柳)  白石朝太郎


■日常性を詠いながら、その背後には社会人生に対する敏感な批判精神が横たわっている句がある。社会や他人の醜部や恥部しか眼につかないのは、いじわるな根性というので、風刺精神ではない。  白石朝太郎


■自分で佳い句が作れたなと思うときは嬉しいが、昔日の興奮はない。が、ひとが佳い句を作ったときは、読んでいて、思わず涙が浮んでくるほどの嬉しさを感じる。川柳一筋に生きつづけて、やがて己の限界を知った男の姿であろう。(昭年45和12月)  白石朝太郎


■川柳は十七文字のドラマです。「おおっ」という意外性と、じーんと胸に沁みる共感とのバランスが大切だと思います。  丸山 進


■句会ではさまざまな課題吟としてだされいるが、それは結局、たったひとつのこと、「生きる」ということに集約される。 北野岸柳


■有名な先人の句を見て下手だと言う。その句はたしかに下手だ。しかし、この人が学んだら、きっと誰よりもうまい句を作っていたろうと思う。  白石朝太郎


■選者は作者と向き合っていながら、いつも背中を見られているものだ。  白石朝太郎


■勉強、勉強といつも口にしている男がいる。聞いてみると、その勉強とは「ネタの仕込み」のことであった。ニセモノほど、ちやほやされる世の中では、これも勉強といえるのかも知れない。  白石朝太郎


■折りにふれての先輩の一ト言が、自分の中に眠っていた資質を覚すのに、決定的な言葉となることがある。私は今日まで、雑談の中で多くの人から教えられたことを忘れられない。  白石朝太郎


■沈黙と忍耐にどれだけ耐えるか、それが句の善し悪しをきめる。  白石朝太郎


■杜甫や人磨の折目正しい調子に心惹かれながらも、人間まるだしの李白や旅人に強い共鳴を覚えるのは、私が川柳家であるということかも知れない。  白石朝太郎


■どうしたら幸福になれるかと計算ばかりしている人間は、いつまでたっても幸福になれない。どうしたら好い句が作れるかと理屈ばかり考えていても好い句は生まれない。  白石朝太郎


■活字が、川柳の形になるのを喜んでいるような句がある。  白石朝太郎


■句を一心につくれば、句は君という人間を作ってくれる。  白石朝太郎


■人には姿の好い人と悪い人がある。句にも姿の好い句と悪い句がある。句ではその姿の中に作者の心を語るものがある。  白石朝太郎


■能では形をやっているうちに心が出てくるという。川柳はつくっている中に文字と文字の間が読めるようになる。  白石朝太郎


■川柳にはユーモアが必要だと思う。しかも上質のユーモアが‥‥。究極的には「ペーソスのあるユーモア」を目指したい。  松尾 冬彦


■一歩前へ これ以上略すればくずれるというぎりぎりの線がある。そこでまとめるのが普通だが、思い切って一歩踏み越えてみることだ。常識の線を破らないことには、迫力のある表現はできない。  白石朝太郎


■句の対象は何も教えてはくれない。作者の考えが甘ければ、甘い姿勢をとる。だから句は作者のこころを鏡のように写し出している。  白石朝太郎


■意味ありげな文字を並べているが、文字はバラバラで皆死んでいる句がある。佳句はさりげなく並べたように見える文字が、一字一字みな生きている。  白石朝太郎


■皆に判ってもらおうとするより、一人に判ってもらおうとする心が、やがて皆にも判ってもらえることになる。  白石朝太郎


■川柳作家はいや川柳人は詩の探求者である。もっとはげしい鋭利な姿勢もときにはほしいとわがままを言う。  藤井比呂夢


■川柳は詩であり文芸である。文芸とは文字通り、言語の力を借りて芸をすることに他ならない。日常の説明や報告に終わらず、そこに付加価値をつければ一句は輝いてくる。要は読んでくれる人に、どれほど感動を伝えることができたか、であろう。  須田 尚美


■川柳が上手になりたいと邪な気持ちが起きたら潔く川柳を止めるべきである。  笠原 高二


■川柳もダイエットが大切、その削ぎ落とされた言葉を楽しみましょう。  川上 大輪


■自分に素直な作品は、堂々としている。飾らないから生き生きして温い。 守 正徳


■選者の責任で作品が選ばれる。ならば選者として考えて欲しいのである。内容が悪ければ責任は果たせない。選者は今以上に川柳を思い、良い作品を書くべきだと思う。作品を持たない選者に他人の作品が見える道理がない。そんな偽選者が居る限り川柳は良くならない。  墨 作二郎


■多くの川柳人は、始めは時事川柳その他の新聞川柳から入門して来た人が多いと思うが、これらの川柳に満足できなくなる。ここで初めて自分の川柳の進むべき道を考える。難解句も三度読んでみると作者の意図するものが大いに解るし、解らなければ感じればよいと思う。読者と作者の想いが違っていても、それでいいのではないか。  西郷かの女


■大会参加者の多数を誇るよりも、作品が自己主張されているかを考えるべきである。――川柳にとって多数が安泰とは限らない。小数が生き残れるとは限らない。各々に研鑽して道を拓くしかない。  墨 作二郎


■川柳作品を発表するのは自己主張していると言うことである。今に生きていることで自己主張は大切なことで充分に責任を果たすことになる。精一杯でなくてはならない。  墨 作二郎


■このごろは「さびしくておかしい句」「おかしくてさびしい句」がいい。人間の本質はそこにあるような気がする。  櫂 未知子


■未完の魅力と、未完の駄作は同じ未完であっても根本的に違うものであるー。  大野 風柳


■時代の趣向や流行に流されない川柳でありたい。  伊藤 正紀


■「風流」は川柳のものではないと私も思う。私が川柳に念じていることの一つに「粋(いき)」がある。「日常」を素材にとらえてそれをそのまま詠むのではなく、「非日常」のところへ置いて気のきいたレトリックで薄化粧する。そんな句が大好きな古い人間でご免!  大木 俊秀(たかね NO363)


■何気ない光景を剥ぎ取り人間の底に触れる川柳を手ですくう。  佐藤 岳俊


■鑑賞と違って作品評は痛みを伴うものだ。評の一言一句が自分自身に跳ね返ってくるからだ。  細川 不凍


■――十七音字を守りながらも、少しずつ定型の句に違和感を覚えるようになってきた。一句を一気に吐き出してしまうと、二句一章、二句体の句のリズムが自然と合うようになってきた。確かにリズム的には難があるかもしれないが、二物衝突的な表現手法が内在律として吐き出しやすくなったのである。  岡崎  守


■リズムのない作品なんて、ありえないと思う。作品はそれぞれのリズムをもちながら、息をし生命を主張している。ただし、リズム感の相違は作品によってまちまちであり、その相違をどうのように感知するかは読者に委ねるしかない。  岡崎  守


■その生きている想いを何に託すか、十人十色であり千差万別である。僕は川柳に託すことによって、人生を人間を、生と死と命への想いを、表現することを得たと思っている。――すべての欲望を断ち切れないことへの葛藤の姿でもある。  岡崎  守


■僕は「川柳とは、命のうつろいの詩である」と位置づけしている。命とは、自然界の命であり、人間界の命である。それらの命のうつろいを見つめながら、一歩ずつ僕の命の人生を歩んでいる。人生は短くもあり、長くもある。そして日々に変化し、成長もあり衰退もある。喜怒哀楽の中で生かされ、一秒ずつ寿命を刻んでいる。  岡崎  守


■「…対象句の意味解釈に汲々として、句の享受鑑賞する余裕のないような評に出合うこともある。(略)決して難解句などというな、そうした句に遭遇したら、あなたのイメージを自由奔放に展開して、ひとつの茫漠とした世界をつくり上げてみなさい。実はその茫漠とした再現された世界と、作者の意図した世界とそんなにかけ離れているものでないと、いうのが私の持論である」(川柳つれづれ草)  関水華


■川柳とは、何か、現在を彩なす思考の中で、熱く語られている。得体の知れない十七音字を原型とする川柳という名称の中で、それぞれが遊び、楽しみ、苦しんでいる。趣味か文学か、大衆性か文芸性か、量か質か、などを内包しながら、歴史の道を歩みつづけている。  岡崎  守


■空中の楼閣を描きながら、現実とのはざまの中で喘いでいる。浮遊するもの、幻影するもの、生滅するものを想い、何かを求めて彷徨している。  岡崎  守


■軽味を軽い句と勘違いしている人が多いが、軽味の奥の深さを読み取って欲しいものだ。  加茂 如水


■定型のもっている力はすごいと思う。はっきりしている日本の音節。はっきりしている日本語。そういうことばで川柳をつくれる私たちはしあわせである。いちばんいいかたちの五、七、五。私たちは、もっともっと五、七、五にこだわろう。  天根 夢草


■みんなよい句に見えたり悪い句に見えたりすることがある。自分の心身の状態が最悪の場合とばかり思っていた。昨今責任は自分ばかりではないと居直ることにした。主観的要素と客観的要素は等分の筈だ。  佐藤川太郎


■日頃使っている言葉での生活をよりよくするために、その言葉を使って、いきいき呼吸したい。「言葉に使われて」しまわない努力がのぞましいのである。  藤井比呂夢


■言葉は明確で一句に謎がある。そんな句を詠みたい。読みたい。  櫂 未知子


■教訓でも嘆きでもない句を読みたい。そして、詠みたい。  櫂 未知子


■季節の中でわたくしをうたうことの楽しさ。わたくしをうたうことでにんげんのことをうたっていることに気がつきます。  渡辺 和尾


■乱暴ではなく大胆、小心ではなく繊細。その二つを兼ね備えた時、作品は迫力を以って登場してくれるだろう。  櫂 未知子


■カタカナの入った川柳を嫌う柳人が居る。一方、若者向けヒットソングの曲名や歌手名のアルファベット化は50%を越えている。いずれ川柳にもABCが‥‥。  津田 暹


■川柳作品は、そんなに考え込んで理解するものではないと思っていますが、さりとて、軽く扱うものでもないと思っています。十七音という短い詩形を、どう自分の表現力で広がりをもたせるか、ますます難しくはなっていくのですが。  渡辺 和尾


■芸術において大衆から認められなくなることは、最も大切なものを失うことなのである。これはチャップリンの言ったことばだが、はてさて川柳は如何なものなのだろう。  池 さとし


■愉しくとは、枠にこだわらず縛られず、思うがままに自由奔放にの活動を意味する。  池 さとし


■課題の言葉を通して作句する川柳はどうしても観念的概念的になる。――「もの」を見て作句すべきではないか――課題から作句する川柳は、まさに「頭で制作する」のである。それが川柳の観念化概念化の原因だったのである。「もの」が川柳のそこを変えるであろう。    野沢 省悟


■良い句とは何か。一瞬その句の中に私が入りこんで作者と一緒に呼吸している。良い句というより好きな句かもしれないが、今はここまでしか分からない。――それを言葉にするのは大変な事だけれども。  加藤 久子


■柔軟な発想など、及びもつかないことは、十分承知の上で、だからこそ発想の泉を耕すことの必要性を、痛感しているこの頃である。  池 さとし


■選者を含んだ平和は沈滞につながる。若い仲間にどんどん道を拓(ひら)いてあげたい。  杉野 草兵


■上手そうに見える句がある。「そうに」という所が問題で自戒している。  伊藤 正紀


■川柳作品に「省略の妙」ということばをよく耳にする。わずか十七音律の短詩だからだ。たとえばだらだらと長い便りを書けばいいというものではない。短いことばでもこころの深さがとどけばそれでよいのである。そう言った意味あいを川柳作品に求めればよいのである。  藤井 比呂夢


■いったん作者の手を離れた作品は作者と無関係に作品自身で立ち上がるといわれるが読者の感応に委ねるだけのものを作家として創出しているわけではない。読者を捉え魅了する、あるいは自身の造形した世界に読者をひきずりこむというような、単に共感や伝達では終わらない作品を創ることが私達作家の目的でもある。この目的意識がはっきりしている作家ほど自身の本質を知り選択する言葉との相関を見極めたいと願うはずだ。  清水かおり


■不思議なもので自己の内部を抽象化したり私性を消滅する叙法を試みる作家が増えてきても書くという行為には作者の本質がごまかしようがなくあらわれてくる。  清水かおり


■短詩表現は究極に於て抒情詩であり、真の意味に於ける抒情詩だけが鑑賞者の胸底を打つものであることを認識すべきである。  河野 春三


■現代川柳とは、高度な批判精神にもとずく人間諷詠の短詩であるといってよろしい。  河野 春三


■短詩の存在が、一つのぬきさしならぬ生存へのあかしとして、人間苦悩の象徴として、それこそ趣味や嗜好というような言葉で現わされる安易さを越えて、深く、きびしい人生につながっているであろうことを改めて認識せずにはおられない。  河野 春三


■教訓も一般論も佳句にはならない。名句は「その先」にある。  櫂 未知子


■感動そのものの質は時代と共に変化を遂げねばならないだろう。先の文化を享楽した若者達の感動体は、先人達と同しでないのは、至極当然だからである。  岡田 俊介


■片柳哲郎氏が、昭和五十年代に『藍』誌に発表した「現代川柳の美学」の中で、現代川柳は、「私」を詠むべきものだと説いてから、二十年が経つ。感動の伝達は、「私」を詠むことと密接に係わっているように思われる。この意味からも、片柳氏の論は、生き続けられるべきである。  岡田 俊介


■そこに自分の知らない体験が込められていると、異文化に出会ったような驚きと感激がある。川柳作品の短い空間に込められた「意味」を感動といえば大げさだが、感情の小さな動きとして捉えるのが私の川柳活動の原点である。いい作品に出会って身震いする、そこには必ず感動がある。  岡田 俊介


■定金冬二氏に、いい句に出会ったときはどんな感じがするかと、いかにも愚問である質間をしたところ、「身体が熱くなるように感しるものだ」との答えが返ってきて、ああ冬二さんも私と同じなのだなと、納得した。作品を通じてのこの感動の伝達こそが、川柳活動の源泉のように思える。  岡田 俊介


■自分の背丈にしっくりあった文学私考しか語るものではないな、と思っている。その生活感情による文体ならば句であろうと文章であろうと、アマチュア作家の書いたものなら、まず読んで裏切られないような気がする。  片柳 哲郎


■十八年といえば、世も移り、人も変わる。当然、川柳も変わった、と思いたいが、そう言い切れる自信がだれでもあるとは思えない。(第18回川柳Z賞発表誌より)  尾藤 三柳


■川柳と俳句の違いをはっきりさせられればそれに超した事はないが、同じ五七五を突き詰めてゆけば、人の「音色」は同じような作品になって現れる。だから少し横道にそれるが、優秀な俳人であり優秀な柳人であるなどはナンセンスであり認めたくないと強く思う。  杉野 草兵


■時事吟や人間諷詠にしても、川柳人は独特の諷刺、皮肉を生かすべきだ。その為には真実を把握出きる眼、反骨精神と共に、ユーモアの哲学を持つ必要がある。  今野 空白


■初心のうちは、稚拙な中に個の光みたいなものがキラキラしていたのに、いつの間にやら周囲に同化して個を消していく。同化って一種の精神安定剤なのだ。  横村 華乱


■覚えた頃とは世相も善きにつけ悪しきにつけ変わった。もうパロディーは追わず心ある作家の、目で聞く、耳で見る秀作により多く触れ学びたいと思っている。  柳沢 平四朗


■私たちの書いている川柳は、互いに言葉と言葉が影響し合い乍ら見事な表現演出をしているだろうか。  伊藤 律


■年齢と共に、見えてくる「美」があるという認識は、私にとって都合がよい。勇気が出てくる認識である。それを基にして、新しく作家として出発できることを暗示しているからである。  岡田 俊介


■価値観、これを変えて過去を見れば、過去の自分の大切にしていたものが、ガラガラと音を立てて崩れ去るのを感じる。作品にしても、かつて愛した伝統川柳の名作が、音を立てて崩れ去ってしまう。怖いものである。自分の価値観を変えるだけで、こうなのだから、他人との違いは、もっと大きい筈である。その作品にもずいぶん失礼な鑑賞をしているのではないかと、危惧してしまう。  岡田 俊介


■「みる」対象は物に限らない。言葉であれ観念であれイメージであっても、「みる」態度に違いはない(もちろん理想であり、現実とのギャップに今も悩んでいるが‥‥)。川柳にいま必要なのは「みる」こと即ち対象や言葉の前で立ち止まること。書くという行為の前に、「みる」ことを強く意識することではなかろうか。 矢本 大雪


■私の中での川柳の川柳としての成立条件の一つに「ゆれる」(ゆらすことができる)ということがある。ゆれる、ゆらすことができるというのは、自分やもしくは第三者が句に介入できる、または入り込んで理解できる、ということだ。どんな名句でも、自分や他人が入り込めない、自分や他人が揺らすことができないブランコはとてもつまらない。  佐藤 俊一


■桜の花のように、言葉を駆使できたらと、そして、その言葉が充実した思考にマッチしているように努めることは、たいへんなことである。作品の奥は深い。その深い方向へ目を向けよう。  渡辺 和尾


■言葉で語られた以上の沈黙の部分、言葉の背後のイメージ、さらに語られないものが川柳の主要な部分を占めてくる。川柳は理解できる世界よりは感じさせる世界に、書くことより書かないこと(省略すること)に傾くだろう。  野沢 省悟


■川柳の比喩表現が量・質ともに俳句を圧倒していることは、川柳がいかに現代詩に近いかをものがたる。  野沢 省悟


■川柳というジャンルは、はるか上空から、人間や社会や歴史や文化や自然を見下す衛星でないと、これからの文学世界を生き残れない。  渡辺 隆夫


■川柳作品の質が問題になることがありますが、あるがままでいい、と考えます。  青野みのる


■川柳は、むずかしい漢字を並べることよりも、仮名の使い方が大切なのです。  青野みのる


■平凡を非凡に変えるのは、人の倍も三倍も人や事や物をみつめることである。心を隠さずに表白することである。その時、人には見えなかったものが見え、人が感じないものを自分が捉えていることに気づく。正直に自分を出す。恥ずかしがらずに出す。裸になり切る。これがいつのまにか天分をつくり上げる。  時実 新子


■個々の置かれている状況によって、作品の方向性や創作への意欲もまた、自ずと異なりを見せるものである。  酒谷 愛郷


■書くものが有る無しに関わらずに、私にとっての、創作することの意味合い(自己を癒やす)を、今後も強くこだわりつづけていくしかない。  酒谷 愛郷


■分かり易さから言っても、軽やかさから言っても、庶民性から言っても、拘りない闊達さから言っても川柳的な<新俳句>━━いいところがある。  横村 華乱


■川柳の御幣を担いで、イソイソニコニコ極楽へ行こうなんて、そりゃ甘い考えだ。川柳は人生の迷い道だ。煩悩ふんぷんたる道だ。ま、それでも極楽へ行きたけりゃ、川柳という名の竹光を振り回していればいい。  横村 華乱


■アウトサイダーになったり、されたり、川柳も川柳家もそういうところがあるんだよなあ。やんちゃだったり、生真面目すぎたりがときには傍目にはズッコケているように見える。  横村 華乱


■選ぶという事は与えられた最大な試練であるとともに、投句者の俎上にいつもあるという事である。投句者が多いという事は選者の個性がより強く反映されるものと思っている。  杉山 竜太


■川柳作家には三つの人種がいる。句会中心主義の作家、川柳誌中心主義の作家、めったに顔を見せぬ作品中心主義の作家、これを別の面から見ると、課題詠作家、半課題詠作家、雑詠作家ということにもなる。  横村 華乱


■「誰だって川柳はつくれます」というのは十分理解が出来るけど、「誰だって川柳の選者がつとまります」というのは、何度考えても分からない。  横村 華乱(たぶん公的な、という意味だと思います。:かんちょう)


■文語の使用は、その部分だけがギラギラしたり目をむいたりすることなく、口語のなかによくとけ込んで、句全体の調和を保ちつつなおかつ表現効果を高める用法がもっとも望ましいと言えましょう。  北川絢一朗


■川柳を発表するってことは、当然のように川柳批評を前提としている訳で、これを避けて通る訳にはいかぬのだ。それが嫌なら、人前に句を晒すべきではない。  横村 華乱


■狎(な)れるという言葉は私は好きではない━━つまりなんとかなるかも知れないという安易な意識が川柳界全般に支配しているのかも知れない。  寺尾 俊平


★ここから2000年↑


■この先の川柳は新しい「形」に切り取る工夫にある。現実にあるものを形に押し込むのでは内容は知れたもの、感銘は残らない。  墨 作二郎


■一句の川柳を完成させるためには、たとえば下五がどうにもならなくて、悶絶するほどの情熱と純粋さがなければならない。  北川絢一朗


■過去も現実も、あるがまま受け入れていく、自然体で生きていくことの大切さを教えてくれる作品は、優しいが力強い。ゆっくりと進もうよ。  渡辺 和尾


■詩は、志であると言われる。だとすれば、己の心から逸れたところに、詩はあるのではあるまい。抒情の有り様というのも、つまりは心の赴き、感情の起伏であり、生きてあることの実践を反映させることである。  古谷 恭一


■私の場合、マイナス文学に魅かれることの方が多いのだが、むしろマイナス文学の方に真理や審美が切ないくらい表白されている事の方が多いように思うのだ。川柳作品も、もっと退廃と悪徳の作品が台頭してきてもいいのではないだろうか。  みとせりつ子


■━━感動がふっと萎えてしまう時がある。━━そこには人間性の美しい善的な部分ばかりが浮上してくる。悪(マイナス面)がほとんど影を潜めている。いったいここまで悪を覆い隠さねば、川柳という文芸は成立し得ないのかという疑問は愚かだろうか。だが、美しくあるだけのものにどれだけのインプレッションが湧くであろうか。  みとせりつ子


■たとえば「火事」は冬の季語。しかし川柳ではキーワードとして扱われる。拘束が少ない、それはそのまま川柳の厳しさ。  櫂 未知子


■料理のポイントは素材と技、そして香辛料。スーパーの画一的な味に慣れるのが怖い。川柳も然り。  津田 暹


■川柳を読むという行為は、明らかに作家の創出する仮想現実を読者が体験することである。仮想現実と現実世界との紙一重の違いが、過去にも何度かおののきを覚える作品に出会ってきた。仮想現実の世界で、魔性の作品に出会いたいという願望がいつも離れずにある。 岡田 俊介


■ 本当の現代川柳作品は、その個の表出以外にはないものだとさえ僕は思う。個人の所産を正しく出そうと思ったら、その個をそのまま出す以外にはないが、一人一人みな違っていながら、いい作品に遭遇すると自分の個が普遍的に共鳴する。この他の個性に共鳴するという不思議な働き、それが作家個人の尊厳というものであろうか。言い換えれば個性的なものを発表してくれば来るほど、作家は共感が持ち易くなるのだと思う。  片柳 哲郎


■「表現の在り方はそれぞれの信条によって異なるがすべて或る具体的素材から抽象(シュル化)へ姿を変えて、想いの周辺を抒情的に創出している。抒情に流されては現代文芸に従いてゆけないが、近代的な内実をもった抒情や、何らかの意味で批評性を含む抒情など、短詩型川柳から創出されるべきものと思う。  片柳 哲郎


■川柳作家と呼ばれるには、その上に少なくとも一貫した信条が必要であろう。技術だけではどうにもならない精神の持続があってこそ作品は命の輝きを放つのである。  細川 不凍


■〈人間いかに生くべきか〉を年令に即して見つめる、つまり生涯の問題として捉えることは、自分やその所産である作品を高めていく上で必要なことだ。  細川 不凍


■一句をもって〈いかに生くべきか〉の問いに答えるのは至難の業だが、自分の内からの要請に応えるかたちで一句一句を連ねていくとき、そこには作者の生きた軌跡が自ずと現れてくるものだ。  細川 不凍


■入選句数の多きを尊しとは思っていない。一句でもよい、作者にとって会心の作に触れたい。それを発見したいのだ。無記名句と違い、作者の名を明記した一連作品に対して、それ以外に何を見るべきであろう。  片柳 哲郎


■句の中で知的探究とか、観念への埋没とかの欲求は芸の中では二次的なものだと思う。やはり読者が他人の作品を読むのが忘我であり、陶酔であり感動であろうと思う。  片柳 哲郎


 


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