自己責任社会

私は、自己責任とは「何もかも自分のせいだと思うこと」だと思っています。例えば米国において、自分がハンバーガー等を食べ過ぎて肥満になったのは、そのファーストフード会社に責任があるとして、会社を告訴した人がいましたが(確か敗訴したはずです)、おそらく世の中のほとんどの人は、食べ過ぎた本人が悪いのだと判断したでしょう。もし彼が、肥満が原因で何らかの病気になり、その治療のために病院にいくことになった場合、当然ながら、医療費がかかります。一部は国の負担、つまり税金によって賄われます。極端な話が、国民のお金がその人のために使われるのです。このことで、医者のお世話になっていない健全な国民は、多少なりとも不満を抱くだろうと思います。

ここで自己責任という言葉を持ち出すならば、告訴人の場合の自己責任とは、ファーストフードを食べたことによる結果について、誰のせいにもしないということだと思います。それ以上の意味はありません。というのは、彼にいくら国民のお金が使われようとも、国民は彼のせいにできないということです。あれは米国の話でしたから、国民は、米国民だったのでお金を使われたのだと思わなければならないというのが、本当の自己責任だと思います。

もう一つ考えられる例は、歩道を歩いていて、車が突っ込んできて双方怪我をした場合です。通常、一方的に運転手が悪いことになりますが、ここでも歩行者、運転手双方に自己責任を適用するならば、歩行者は「そこを歩いていた」から怪我をしたのであり、運転手も「操縦を誤った」から怪我をしたに過ぎません。法律上、車は歩道を走行してはならないことになっていますが、だからといって、そんなことが起こらないとは言えず、歩行者もそれを承知の上で歩道を歩く必要があります。

「誰のせいか」を考えることなく、「自分のせい」と考えるのが自己責任なのだとしたら、それは、とかく責任の所在を明らかにしようとする現代社会とは、まったく逆方向の考え方になります。完全自己責任社会では、誰にも責任がないか、全員に責任があるかのどちらかです。また、このような社会においては、いわゆる慰謝料などは存在しなくなるでしょう。例えば先ほどの歩道に突っ込む車の例において、現代社会では、歩行者は運転手に慰謝料を請求して「損害賠償」することができますが、そのような社会では、歩行者は自分が怪我をしたのを運転手のせいにすることはできません。したがって慰謝料は考えられません。もっとも、運転手が良心的な人間であるならば、治療費等を自発的に支払うことも考えられますが、あまり期待できないでしょう。

さて、今はもう過去の話となってしまいましたが、イラクにおいて日本人が人質となった事件がありました。そして自己責任論が飛び出しました。共通していたのは「捕まったのは彼らが悪い」という考えです。これは自己責任の考えには矛盾しません。しかし、彼らの場合の自己責任とは、イラクに行って何が起こったとしても、誰かのせいにしないことだったと思います。同時に、彼らの行動、そして事件が、我々にどんな影響を及ぼし、そしてどんなことを考え、行動したのかについても、それもまた我々の自己責任だと思います。つまり、我々が彼らと同じ日本国民であるがゆえに、お金を彼らのために使われたに過ぎず、また、国会議員や各省庁の職員らの心労、これについてもそのような立場にあるから心労を負ったに過ぎないと思います。完全に自己責任を唱えるならば、事件を無視すればよかったのです。無視しなかったためにお金、時間など、さまざまな「リソース」が消費されただけの話だと思います。

あの事件については、結局、人質たちは無事に解放され、帰国後の記者会見で、彼らは我々に対してすまなかったという気持ちを述べました。しかし、その言葉に誠意が感ぜられず、不満に思っている人もいるようです。そして、再び自己責任論が浮上し始めました。不満に思わなかったらそれですべて解決する話なのですが、わざわざ不満に思い、問題化したいようです。謝罪ということで、土下座し、頭を床にこすりつけ、嗚咽を漏らしながら「もう二度とこんなことは致しません。どうか、どうか、お許しください」と謝罪するようなシーンを見たかったのでしょうか。恐らく、それでも満足しなかっただろうと思いますが、実際のところは私にはわかりません。さらに、彼らの行動の結果生じた損害に対する補償を、自己責任という言葉を使って求める人も出てきました。自己責任なれば、彼らが何をして、その人に何があったとしても、やはり責任を問うことはできないと思います。

最後にまとめると、私が考えるところの、完全な自己責任社会というのは、自身の行動の結果を誰のせいにもできない社会です。「行動」とは、「そこら辺を歩く」といったことから、究極的には生きていることすらも行動です。すなわち、生きている間に何が起こったとしても、それは生きていたからそうなったと考える社会が、完全な自己責任社会だと考えています。もちろん、現実にそんな社会が作られることは永遠にありえないでしょうが、自己責任を主張しながら、同時に、責任の所在を他に求めようとすれば、それは社会を歪めることになるでしょう。