図書館にて

 僕は十三と記されてゐる穴に傘を立てた。十三、――それは縁起の悪い数を意図的に選ぶといふ、デカダン的、或いは悪趣味に依るものではなく、単に偶然の結果であつた。しかし僕は基督教徒ではないので、それに別段の意味を認めなかつた。……代はりに直感したのは、それがこの数時間の内に、己の身に起こるであらう出来事の暗示ではなからうかといふやうな事であつた。僕は、――平生でさへ貧血症の為に亢進してゐる心拍数の、さらに高まるのを感じ乍ら、図書館のゲエトを通つた。

 かう書き乍らも、僕は自分がAといふ作家の、――隠す必要性はまるで無いのだが、敢へてAとして置く。彼のHといふ小説、――これも何故イニシアルなのか?己の興味対象を読者に知られまいとする態度は余り宜しくないといふ神の声あり。そこで芥川龍之介の歯車といふ作品であることを、ここに公表する。それは暗示の連続であり、そこに続くものは彼の死である。――だからといつて、僕はこの小説に死を散りばめて、以つて己がこの図書館内で頓死するといつた、ふざけ切つた空想を展開しようといふのではない。……もちろん、それをしようと思へば、出来なくはない。

 例えばかうしよう。僕は図書館のゲエトを通つた。さうして、ドストエフスキの「罪と罰」を探した。ロシア文学は、ロシア文学としてではなく、「その他の国の文学」といふ所にまとめられてゐた。――が、その何処を見ても「罪と罰」は無かつた。僕はこの図書館には、この本がないか、或いは誰かが借りていつて、まだ返却されてゐないのだらうと思つたが、ふと隣の「スペイン文学」の本棚に目を移した途端、僕は「罪と罰」を見つけた。だうやら、司書がこの本、或いはドストエフスキ氏がスペインのものであると勘違ひをしたのだらうと思つた。それを手に取つて窓際の椅子に座り、適当なペエジを探して読み始めた。そのペエジにはかう書ひてあつた。「ラスコリニコフは殺した相手の顔をのぞきこんだ。両目が今にも眼窩から飛び出しさうになつてゐた。鍵束は、この前訪ねたときに老婆が鍵を取り出した同じポケツトにあつた。ラスコリニコフは大急ぎで、金目のものを探した。ふと、老婆がまだ生きてゐるのではないかといふ不安に襲はれて、ラスコリニコフはまう一撃加へようと斧をふりかざした。だが、とりあへず老婆のポケツトを探つてみると、財布が出てきた。ドスト氏は思つた。あやうく見落とすところだつた。」

 この男はこの後、己の犯罪を目撃したといふ罪で、老婆の義妹も斧で悶死させる。その他のペエジはまだ読んでゐない。しかしだうやら、――十三番のカアドを引ひたのは、僕ではなく、この老婆とその義妹らしい。まて、この殺人者は、その後だういつた人生を歩むのか、僕はこの長編小説(といつても、その本では漫画として描かれてゐる)のたつた一ペエジを読んだに過ぎないので、この男が何故この老婆の家に行き、強盗殺人を働ひて(日本であれば、死刑或いは無期徒刑に処されるであらう)仕舞つたのか、いや、それ以前にこの男の何者であるかさへも、僕は知らずにゐる。

 だが、ここではそこまで追求しないことにしよう。「罪と罰」についての論評を、ここでする積もりはないからである。それよりも話が終つてしまつた。僕はこの小説の中で、己に十三の暗示のかかつてゐることを展開し、さうして己に死をもたらさうとした。しかし死んだのは僕でなく、例の二人であつた。本物の死神でなくドスト氏が、彼女らに非業の死をもたらしたのだと思ふと、ドスト氏が悪魔か何かのやうにさへ思へて来るのだが、実際のところ芥川龍之介の言葉を借りると、彼の小説は戯画に満ちてゐるらしい。――それも、悪魔さへ憂鬱にするやうな。

 まあとにかく、ドスト氏の性格によつて本物の死神がどこかに行つて呉れたやうだので、僕はかうして小説を書き続けることが出来るのに違ひない。ドスト氏に感謝する。また、二人の冥福を祈る。

 さて、僕はこの図書館に何をしに来たのだらう?チエホフの「ワアニヤをぢさん」を読んで、それから小説に取り掛かり、何やら現実と空想の入り混ぢつた不可解な文章を、一時間のうちに原稿用紙五枚に渡つて書かうとしてゐる。いや、本当は小説の積もりで書き始めたのだが、ドスト氏が出て来たお陰で目茶目茶である。ここで陣容を立て直さうと思ふ。いつたい何処からやり直したらよいものだらう。さうだ、僕は又、――三度目になるが、図書館のゲエトを通ることにしよう。さうして、今度はチエホフの「かもめ」を読むことにしよう。それで、十三番のカアドを引くのは云ふまでもなく、トレエプレフ。