退院して第二段

 まえがき

 前回は立秋の前に入院し、秋分の後に退院したが、今回も同様、立夏の前に入院し、夏至の後に退院した。矢張り二ヶ月近くかかった。一年は十二ヶ月有る筈だが、毎年二ヶ月入院するようでは十ヶ月しか無いのと同等であろう。私は人の 120% 充実した生き方を為なければ成らないようだ。ではどうすれば充実するのか。物体は、質量を上げずとも体積を小さくすれば密度が高まる。それを充実と呼ぶならば、生き方に於ける「体積」とは何の事であろうか。
 これまでの私ならば、この問の答を明らかにしようと努め、其の通りに、体積を小さくして生きようとした筈である。そして、其のような生き方の正当性を主張した筈である。私はこの問に限らず、これ迄、常に真実を語ろうと努めて来たつもりである。だが、私は世間が其れを理解出来ぬ事実にようやく気が付いた。理解出来ぬだけなら、まだ良かった。振り返って見ると、彼等の眼は冷やかであるか、憐れみを帯びているかの何れかであった。どうやら、私は気狂いの烙印を押されていたらしい。太宰治が精神病院に居られた時の心境は、こんなものであったかと思った。

 壱、ギターについて

 アコースティックの、フレットレスベースを買った。プロの演奏をネットなどで見て、其れを真似しようとしたが上手く行かず、寧ろ自分の弾き易い様に弾いたら其れ形の音が出たので、誰に聴かせる訳でも無し、これで良いのだと独り合点して居る。

 弐、森鴎外について

 森鴎外の作品については、新潮社が発行している文庫本を五冊全部購入し、今回の入院中に読み切った。一ヶ月も経過した為に感動も薄れて了ったが、面白いと思った個所が幾つかあった。鴎外の作品は、短い割には可也濃厚である。一語一句に注意し、十分な時間をかけて読まなければ、彼の作品は理解出来ないだろう。また、独逸語や仏蘭西語を多用しているので、解注の頁に指を挟めて置かなければ読めぬだろう。つまり、彼の作品は暇を潰すような態度で読まれることを許さず、真面目に向き合うことを読者に要求しているように思われる。
 そろそろ海外の文学をと思い、Chekhov 辺りはどうかと思って居る。これもまた、短編が多いと云う理由である。本棚の夏目漱石と川端康成は相変わらず埃を被って居る。

 参、自身の小説について

 入院中に、原稿用紙で二十九枚の短編小説を書いたので、前回の小説はどうでも良くなった。と云うより今回の作品すら、書き終えた時点で既にどうでも良くなっているのだが、兎に角、前回の作品はデジタル化して公開することに決めた。これから一度に五枚分ずつ、四週間かけてゆっくり公開する予定である。

 肆、ソフトウェアについて

 ソフトウェアは既に Realistic Vision という名前で公開しているが、これが改良される可能性は可也低いと思われる。最後の更新から既に五ヶ月が経過しており、その間、殆ど source cord を見ていない。命令単独の意味は理解できる。而し、プログラムの構造は忘れかけて了って居る。当時は懸命に取り組んで居た筈であるが、これについても又、今はどうでも良くなって居る。

 伍、このホームページについて

 現在のホームページのデザインは変更しないで置く。但し、当初より内容が増加し、複雑になってきたので、現在、文字の大きさや各ページの構成を見直している処である。プロフィールについて、これが重要な変更点である。「私」は一人在れば十分である。どうして現実の物理的な私と、ネット上の論理的な私を別個にする必要が有るのかと考えたら、何だか其れが嘘を吐いて居るような後ろめたい行為であるように思えて堪らなくなった。また、現実で云われないことはネット上でも云うべきではないと思う。卑怯だと思う。だから万人に私個人を特定出来る程の情報を公開するのが本来ではあるが、而しこの何かと物騒な昨今、住所や電話番号まで明らかにして了うのは如何なものか。其れは裸でサバンナに居るのと同等であって、明日にでも小麦粉か何かが届きそうである。さすがに危険であるから「判る人には判る」程度の情報を開示するに留めて置いたが、あれだけ書けば十分であろう。平均的なホームページと比較すると、書き過ぎですらある。

 あとがき

 さて、この文章を書いているのは七月一日である。この三年間、私は平穏な夏を知らずに過ごした。部屋か病院で、医学的な意味でだけ生きて居た。精神的には瀕死、社会的には死亡して居た。そして今年、体力こそ未だ回復せずに居るが気力は充実し、ようやく生き返った気がして居る。何百回も見た筈の家並みでさえ、今は新鮮に、鮮明に見えて居る。これは誇張ではない。自己暗示でもない。服用中のステロイド薬のせいでもない。恐らくは、入院中に書いた小説、――あれは大学生活を振り返ってのものだが、あれの全く予想もしなかった副作用だと思っている。カウンセラーが絵を描かせるような効果が、知らぬうちにあったのかも知れない。而し以前の心境が具体的にどうであって、其れがどう変わったのかは述べずに置く。其の変化の意味する処は私にしか理解出来ぬだろうから。ただ、こうして「変わった」と断言して、否、断言「出来て」居る点が、既にその変化の一部であることは、参考までに述べて置く。