退院して第一段

 退院して、最初に何を書こうかと思ったが、入院は私の場合珍しいことでないから、別段、意気込むこともなかろうということで、私が今、迷っていることについて、以下に列挙する。

 壱、ギターについて

 何か一芸を持っていたほうがよかろうと思った。楽器をひとつくらい、まともに演奏できるようになりたいと思った。楽器といっても様々あろう。私はまず、どこでも演奏できる楽器がよいと思った。屋外で演奏することを想定したのである。そのため、いわゆるアコースティックな楽器であることが条件となり、電子楽器は除外となった。また、あまり特殊でないが、しかしあまり一般的でもない楽器がよいと思った。奇をてらうのはよいが、練習や整備に困るだろうと考えたわけである。さらに、息を吹き込む種類の楽器はやめようと思った。これで管楽器は除外。これはメロディーを口ずさみ、コードを楽器でやろうと考えたからである。となると、該当するのは弦楽器しかあるまい。
 弦楽器にする場合、ギターの仲間とバイオリンの仲間があるが、どちらにしようか。バイオリン系も面白そうなのだが、ギター系に比べてあまり一般的でないし、あれはコードを弾くためのものではあるまい。となるとギターが候補として残る。ギターにも普通の六弦のものと、ベースギターなる四弦のものがあるが、ギターのほうが一般的なようだ。しかしベースのほうが簡単そうだし、何より低音が魅力だ。だが音域はギターのほうが広いし、応用が利きそうだ。さて、どちらにしようか。

 弐、森鴎外について

 私の部屋の本棚には、夏目漱石、太宰治、川端康成、芥川龍之介の小説が並んでいる。太宰と芥川は全部読んだ。私は長編よりも短編が好みで、この二人は短編が中心であるが、あとの二人は長編が多いので読みたくない。夏目漱石はまだ多少面白みもあるが、川端康成に至っては長い上につまらない。買って損したと思っている。正直なところ、あの作品でノーベル文学賞とは、驚きである。とにかく本当に読みたくないので、別な作家の小説を読んでみようと思ったところで、森鴎外に白羽の矢を立てたわけである。
 そもそも何故、森鴎外なのかというと、太宰治が彼の小説の中でしばしば「面白い」と評価しているからである。夏目漱石等はつまらないが、鴎外等は面白いとも言っていた。だが、某所で彼の作品をちらと読んでみたら、やはり明治の文人。夏目漱石と同程度に難しそうな文章である。しかし短編が多く、読めないわけではないように思われる。……ところで例の長編主体の二人、夏目漱石と川端康成はいつ読むことになるのだろう。鴎外を読みきったら、また新しい(年代の上では古い)短編作家を探すことになりはしないか。そうなると、あの二人は永遠に本棚に陳列されたまま、埃を被った interior decoration の一部となるだろう。それでは不憫だ。いつか読まねばなるまい。果たして今、本当に鴎外に挑戦すべきなのか。……

 参、自身の小説について

 入院中に短編をひとつ書いた。原稿用紙で二十枚の作品である。普段ならば、これをパソコンでテキストファイルにし、ホームページに掲載するのだが、今回は思うところあってそうしないでいる。思うところというのは二つあって、第一に面倒だからである。原稿用紙で二十枚と言っても、実際に書いたのは四十枚で、最初の二十枚は下書きである。なので、また全文読み返すのが面倒なのである。第二に、四十枚書いた後になって、自分が表現すべきだったことがわかったからである。それを表現するには、また全文書き直さなければならない。つまり現段階では未完成、いや、はっきり言えば失敗作なのである。
 だが読み返すことさえ面倒なのに、どこに書き換える気力があるというのだろう。おそらくあの作品には二度と目を通さないだろう。するとあの作品はそのままということになり、鉛筆と消しゴムと原稿用紙と時間とエネルギーの無駄だったことを認めねばならなくなる。それとも失敗作でございと言いながら、最後の作業としてホームページに掲載するか。

 四、ソフトウェアについて

 入院する前からひとつのソフトの作成に取り組んでいる。使い勝手を無視すれば、九割方出来ている。かなり変わったシステムのロールプレイングゲームと、そのエディターである。……私は三年以上前から、こういうのを作る作ると言って、それに生活の全部を傾注し、学業も事実上放棄し、持病も悪化させ、挙句には体を改造しなければならない羽目になり、……いったい何をやっているのだろう。全くの馬鹿である。その命知らずの馬鹿にもようやく終わりが見えてきた。だが九割というのは実はかなり曖昧で、一応は動くという意味では十割と言ってもよいだろうし、調整が必要だという意味では八割だろう。いや、どこまで調整しても十割には届かないはずだ。で、何処かで妥協して、公開する必要がある。それは「参」で書いたことと同じである。

 五、このホームページについて

 毎年一回は改装している。去年は四月に改装して、それが気に入らなかったので九月頃に改装しなおした。それから一年経った。デザインの上では、特に不満はない。すっきりしたものだと思っているし、たとえ優れたページを作ったとしても、訪問者数を考えれば砂中のダイヤに終わるだろう。そうではなくて、内容が問題なのである。だいいち、作者の素性が明らかでない。普通のホームページには必ずといっていいほど存在する「プロフィール」のページがない。訪問者は、私の生年月日、年齢、性別、血液型、星座、趣味、特技、所属等の、本来知らなくてもよい情報を知りたいものだろう(血液型なんぞを知ってどうしようというのか?)。だがこういう情報は、今まで書き忘れていたのではなくて、わざと書かないでおいたのである。プロフィールというのは、私の性格をネットワーク越しに想像するのには、何の役にも立たないと思う。なぜなら私は、自分の性格が、そんな文字情報だけで的確に想像され得るほど、単純なものではないことを知っているからだ。プロフィールを公開しても、個人情報が無駄に明かされるだけだろう。
 そう考えて私は今まで素性を隠してきたのだが、この頃になって、それでは訪問者に親近感を与えないばかりか、不信感さえ与えるのではないかと考えるようになった。また、確かにそこから私の性格を読み取ることは困難だが、それはそれでよい気がしてきた。何を想像して、どういう固定概念を持ったとしても、それは訪問者の自己責任というものだろう。私がそれと異なった一面を見せたからといって、裏切りにはならないはずだ。公開しても、否、公開したほうがよいのではないだろうか。

 以上五点。