或る遅筆作家の弁解

僕は、かなり遅筆だ。例えば物語を書こうと机に向かっても、三時間で原稿用紙三枚が限度だ。その理由は簡単である。あらゆるものに意味を付けようとするからである。

主人公の名前、――まぁこれは、重要であろう。そうして僕の苦悩は始まる。例えば主人公が風呂に入る。その時刻は何時何分か。例えば午後8時ちょうどはどうか?と思ったら、その8に関する、思いつく限りの連想をする。例えばタロットカードの8番。これは「力」を象徴するものである。他にないか。8月の誕生石、これはなんだったかと事典をめくる。さらにその石のもつ意味を調べる。……といったふうに、主人公の現状を暗示する数字が8であるということの裏付けを探す。どうしても8では合わないようだと判断したら、9時に変える。

……さらに僕は入浴剤について考察する。例えば主人公が「ゆず」の香りのする入浴剤を使うものとすると、このゆずにはいかなる意味があるか調べる。花言葉。短命であるか否か。色は何か。歴史上に、どんな形で現れるか。さらには、例の二人組みの歌手についても調べるだろう。それでも合わなければ「桜」とか「檜」に変える。このあとで、当然ながら風呂から上がる時刻とか、風呂上りの一杯に何を飲んだかとか、電源を入れたテレビに何が映ったとか、あらゆる事について意味を付けようとする。もしかしたら原稿用紙を見ている時間より、事典や空間を見ている時間のほうが長いかもしれない。

なぜ、そんなことに意味を付けるのか?別に風呂に入るのが8時でも9時でも、テレビに入る番組が違うだけで、どうでもいいじゃないか。――そこで適当に、入浴開始は8時にする。入浴剤は適当にゆずにする。主人公は8時半に風呂から上がり、発泡酒を冷蔵庫から取り出し、ソファーに座り、リモコンでテレビの電源を入れたら野球。主人公はそれを眺めながら思った。――すらすら書いた。正確に言えば、だらだら書いた。手抜きでさえある。どうでもいいことを書いて、だうしやうといふのだらう。こういうことを書くくらいなら、初めから書かないほうがよい。

どうでもいいことは、書かなくてよろしい。――それならば、跡にはどんなことが残るだろう。作者が、どうしても言いたかったこと。言わずに了うことが出来なかったこと。それだけが残るはずだ。だが、どうしてそれを物語風に、原稿用紙を何枚も費やして、長々と発表する必要があるのだろう。「僕は、これこれについて、こう思います。」「僕は、こうなったとき、こう思いました。」それでいいではないか?

説得力がない。

……それである。「こう思った」と他人に言ってみても、返ってくる感想は「そうですか」という程度でしかない。そう思うに至るまでの変化を、多くの読者は想像できない。だから、わざわざ事件をでっち上げ、その変化、そして結果に合理性を持たせるのである。例えば事実として、

「(僕は友人から借りたゲームの)攻略本に折り目をつけてしまったとき、この友人との仲が壊れ、そして永遠に修復できなくなるという恐怖に襲われ、目の前が真っ暗になりました」

ということを言いたいとする。なぜ「僕」がそんな恐怖を感じたのか。――というより、なぜそう思わねばならなかったのか。それを説明するために、僕はこの一文の前に過去の出来事、およびその感想を長々と陳列し、そうして「(過去にもそう思ったくらいですから)僕は友人から……」と続ける必要が生じる。要するに、恐怖を感じたことを合理化するために、意味はあるけれど‘本質的には’どうでもいい言葉を、わざわざ付け足すのである。そうして、全体としてひとつの雰囲気をこしらえる。雰囲気を破壊するような言葉は、徹底的に排除する。そんな微妙な文章を書いているから、時間がかかるのである。