秋雲の下にて                         解木 剣斗

 私は大学の、ひとつの古びた校舎に入り、その四〇一番講義室に向かった。相変らず、
――というのは、私はここ一ヶ月間、大学には足を運んでいないのだった。その理由は簡
単である。天気のせいである。前半は台風の影響で雨天続きだったし、後半は逆に天気が
好すぎて駄目であった。秋晴れの空の下から、あの薄暗い校舎の中には、どうしても入り
たくなかったのである。
 前の日、文学部の中庭で、椅子に座って昼寝をしていたら、或る友人が声をかけてきた。
「おい、お前講義はどうした」
「なんだ、君か」
「なんだ君か?――俺だよ。そういうお前は、何回(講義を)休んだか、わかってるよな」
「今日で四回目だ」五回休むと、単位を落とすことになっている。
「大丈夫か?」
 私は椅子から立ち上がった。なんだか会話をしたい気分ではなかったからだ。歩き出し
ながら、会話を切るのに適当な言葉を探した。
「次の時間も、(講義が)あるのか?」
「いや、俺はこれで終わりだ。しかしお前、真面目に出ろよ。単位、やばいんだろ?じゃ
あな」
 友人は駐輪場の方へと去っていった。彼の言う通り、私は今年、無事に進級できるかど
うか、ぎりぎりのところであった。文学部国文科の三年生。四年に進級するには、次の日
の午後の二コマ目の講義、――即ち、私が今まさに五週間ぶりに出席しようとしている、
「ニヒリズムと現代の青年像」は必須であった。これを落とした場合、どうあがいても進
級できなくなる。……しかし、この無気力さはなんだ。私はいったいどうして、この講義
に出席しなくとも平気で居られるのか。「落第」の不名誉を、なぜ微塵も恐れていないの
か、自分でもわからなかった。恐怖心というものが、欠如しているのかも知れない。とこ
ろで恐怖心とは、――あ!!
 急ブレーキの音。その赤いスポーツカーは、幸いにも私にぶつかることなく停止した。
考え事をしながら歩いて、そのまま道路を横断しようとしたらしい。運転席には、サング
ラスをかけた怒ったような顔の青年が居た。私は、
「どうも、……すみません」
 と誰にも聞こえないくらいの小さな声で謝り、体をやや前のめりにした。しかも微笑み
ながら、それをおこなった。そうしてそそくさと道路を横断した。恥ずかしかったのであ
る。歩道までたどり着くと、自分の顔の熱くなっているのが判った。不取敢、本屋に寄っ
てから帰ろうと思って、自分のアパートとは逆の方向に歩いていった。しばらくして、背
後から「おい」という声がした。振り向く間もなく、私の横を自転車で颯爽と駆け抜けて
いったのは、先刻の友人であった。
「明日、来いよ」
「おう」私は声を大きくして答えた。
 この友人も、例の講義を受けているのだった。私と同じく、文学部国文科の三年生であ
るが、成績は可也良いほうで、受けた講義は大抵、「優」の評価をもらっていた。当然、
四年に進級できるかどうかなどという低次元な心配とは全く無縁で、それどころか既に卒
業してもよいだけ単位を取っていた。
 良いのは成績だけではない。私と違って社交的で、多くの友人を持っている。それに服
装や頭髪、これも毎日きちんと整えているようで、ワイシャツやジーンズはいつ見ても新
しいし、髪型もずっと同じ短めの黒髪である。いつ見ても同じ、よれよれのワイシャツを
着て、薄汚れたジーンズをはいて、年に二、三回しか散髪しない私とは、人間の程度に雲
泥の差がある。
 そして、その明くる日のことである。私は手ぶらで四〇一番講義室、――文字通り、四
階にあるのだが、そこへ行くための階段を登りつつ、
「相変らず、……暗いな」
 と呟いたのであった。
 意気込んでやって来たものの、始業まではあと二十分もある。今の時間の授業が終わる
まで十分あるが、この講義室は今、使われていないので、先に行って座ることにした。後
ろの重い扉を開けて中に入ると、既に四名の学生がそこに居た。私が講義室に入っても、
誰一人として気に留める者はいなかった。まず、左の列の最後方にいる男性。黄色いイガ
グリ頭で、中肉中背、週刊の漫画雑誌を読んでいる。どこかで見たような恰好だと思った
が、あとで考えてみると、同じ学科のA君であった。皆、彼には近づかないようにしてい
た。あの社交的な友人でさえも。もう一人は、右の列の中ほどにいる、奇妙な眼鏡をかけ
た女性。この人は、知らない。机の上にレポート用紙が散らばっている。……これはまさ
か、今日提出するレポートではないだろうか。しかしあいつは漫画なぞを読んでいる。既
に仕上げているのか?それとも提出日は今日でないのかも知れぬ。いずれにしろ、今日提
出するのは不可能だ。……だがまだ、わからない。様子を見よう。あとの二人は左の列の
前方に、並んで座っている女性である。右の人は、肩のあたりで切り揃えたブラウンの髪、
左の人は黒くて長い髪をしていた。二人でひそひそと話していた。主にサークルの男性に
ついてであった。
 私は右の列の、前から二番目の席に陣取った。前の方に座ったのは、べつに真面目を装
ってのことではない。だいいち筆記用具も何も持たずに真面目とは何事であろうか。そう
ではなくて、私は表向きにもふざけていたのである。世界のすべてを愚弄してやろうとい
う態度であった。さて、座ってみたものの手ぶらなので、何もすることがない。仕方がな
いので、阿呆のように天井を見つめ、ここに来るまでの間に考えていた、「小説は如何に
すれば、面白くなるか」について、続けてみよう。これはあれだ。解木みたいにニヒルを
気取るのではなく、又、お道化るのでもなく、想像した場面、心情を真面目に、忠実に語
る、それに限る。例えば向こうにいる女性二人組。あの二人が今、何らかの理由で急に喧
嘩を始めたら、それをあたかもビデオカメラで撮映したかの如く、一挙一動、表情の微妙
な変化さえも逃さず、克明に描写するのがよかろう。そうすれば、読者に「真に追る」の
感を与えることができるだろう。――それにしても、解木の小説は正反対である。生きて
いる人物が一人も登場しない。だらだらと独白、及び出来事の陳列、これだけである。
「ナ、フザゲヂュウンズナ!!」
 突然の怒声に、私の思考は中断された。最後方の、例のA君が、携帯電話を耳にあて、
顔を真っ赤にして激憤なさったのであった。標準語にすれば、「お前、ふざけているのか」
という意味の、この大学の近辺の方言であった。A君のかんしゃく玉は、さらに続けて暴
発した。
「ソイダハンデ(それだから)、キネヤダバマネヘッタッキャナ(杵屋?じゃ駄目って言
ったじゃないか)。アソゴサダッキャナンモオイデネジャア(あそこにはよお、何にも置
いてないんだってば)。ヘッテモナ(そう言ってもお前)、……」
 相手が反論しているらしい。それとも弁解か。いずれにしろ、A君には通じなかったよ
うだ。
「……イイジャ(いいよ)。ハ(もう)、ナサハタノマネエ(お前には頼まねえ)」
 A君は電話を切ってもまだ、怒っているらしく、机をひとつ蹴った。それからまた、雑
誌を読みにかかった。いったいどんな漫画を読んでいるのだろう。
 終業の鐘が鳴り、しばらくすると大勢の人が講義室に流れ込んできた。二百人はおろう
か。四〇一番講義室は、この大学で最も大きな講義室で、座席数は三百ある。大抵の大学
の、殆どの講義がそうだと思うが、学生は前疎後密に席を占めるもので、この講義も例外
ではない。彼らの騒めきの中から、レポートという単語を探したが、みつからなかった。
どうやら、少なくとも今日はレポートの提出日でないらしい。其の代りに、テストという
単語を数多く聞いた。今日は何かテストをするようだ。勿論、予習も何もしていないし、
前回まで立て続けに四回、欠席したので、記憶と推測とやらも役には立つまい。これは、
……絶望というものであろうか。ああ、折角意気込んで出てきたというのに!これで落第
は決まったも同然だ。――やんぬるかな。へっへ、やんぬるかな。もう、どうにでもなる
がよい。……しかし、鉛筆くらいは、持っておいたほうがいいんじゃないか。終わるまで
ずっとこうして黙っているのも不自然だし、何か一つくらい、答えられるやも知れぬ。う
む、鉛筆くらいは。
「おい君、すまないが書くものを一本、貸してくれないか」
 と私は、後ろの蓬髪の青年に乞うてみたら、彼は無表情のまま筆入れをあさり、やがて
一本のシャープペンシルを取り出して、私に無言で差し伸べてよこした。
「鉛筆は、無いか」ふてぶてしくも、きいてみた。
「いえ」
「そうか、有り難う」
 シャープペンシルには、某有名進学塾の名前がはいっていた。小さいながら消しゴムも
ついていた。これで、準備よし。
 臨戦体勢が整ったところで、始業の鐘が鳴った。教官はまだ来ていない。学生どもの喧
噪も止みそうにない。こいつらは、やる気がないんじゃないか。
 ……それから、二十分が経過した。まだ、来ない。休講なのだろうか、だとしたらこれ
幸いと思ったところへ、教官、ばたばたと廊下、駆けてきて、ぐわっと音立て前方の扉を
開け、息を切らして喘ぎつつ、
「いや、失敬。失敬」
 無理に笑っていた。肩で息をしながら教壇に立った。この教官は身長約百七十センチ、
やせ型で、縁なし目鏡をかけている。年齢は、恐らく二十代後半ではないだろうか。よく
観察していると、何をするにもいちいちポーズを取っている。彼は今、大きな封筒を開い
て、その中をじっと見つめた。何かを確認しているのだというポーズである。何のことは
ない。ただ見てみただけだ。その封筒の中から答案用紙の束を取り出すと、右、中、左の
それぞれの列の一番前の机に置いていった。百枚ずつ分けられているのだろう。そしてマ
イクを使わずに叫んだ。
「ええと、……いいかな?制限時間は、三十分にします。終わったら、前回の続きをやり
ます。今からだと、……三時三十五分まででいいかな。それじゃ」
 この、マイクを使いたがらないのもまた、彼のポーズである。その理由は、「不自然」
だからなのだそうだ。さすがに授業中は使うが、そうでもしなければ、この広い講義室で、
彼の低くて小さい肉声は、何人の耳に届くであろうか。
 答案用紙には、設問がひとつだけ、印刷されていた。
「啓太は、それに合格しなければ落第するとわかっている考査を、彼の兄の不幸のために
受けなかったが、そのときの啓太の心理を描写せよ」
 啓太とは、この講義で参考書として使用している或る小説の、大学一年の主人公の名前
である。大学へ入学したものの面白くなく、前期は殆んど出席しなかったが、夏期休業の
間に改心し、後期は前期の分も勉強し、受けられる限りの講義を受けて、ぎりぎり進級で
きるかどうかといった状況になる。だが、ある期末考査の日に高熱を出して倒れ、その再
考査の日に、ちょうど兄の葬式となる。前の日になって、そのことを知ったのである。再
考査はどんな理由があっても欠席できなかった。啓太は一晩中悩み通し、結局、実家に向
かう電車に飛び込む。
 ――この教官が、書いたのではないかという噂のある小説である。今から一ヶ月くらい
前にひと通り読んでみて、何の発展もないし何の完成もない小説だと思った。問題の場面
は朧気ながら覚えている。……しかしそれだけで、その記憶だけでこの問題に答えてみて、
いったい何点取れるだろう。私と、この教官の思考回路が一致しているのならばともかく
として、……まあ、何か書いてみよう。例えばこんなのはどうか。
「啓太は、自分が兄弟の不幸をも何とも思わない冷酷な男であると思われたくなくて、世
間体が大事と思って帰った」
 それにもう一言付け加えたくなった。
「恐らく啓太は、自分が留年した理由を、上手く説明できないだろう。前期に真面目に出
席していれば、そうはならなかった訳だから。」
 これはこれで良い。しかし、普通だ。この講義はニヒリズムについてやっているのだか
ら、ニヒリズムという単語をちらつかせたら、あの教官も何か引っかかるんじゃないか。
 私は残り二十分で、次のような答案をまとめた。
「もし啓太が、真のニヒリストだったならば、彼はどんな物事に対しても微笑していなけ
ればならない。つまり、試験と葬式とを一晩中天秤にかけるようなことはしなかっただろ
うし、悩みに悩んで電車に飛び乗ることもなかっただろう。もし彼が、真のニヒリストだ
ったならば、電話を切った後、奇妙な微笑を浮かべ、明日着ていく服のことを考え、翌朝、
ゆっくりと駅に向かい、電車の中でもニヤニヤしていたであろう」
 と書いて、私はこの答案が問題に正しく答えていないことに気がついた。問題は、啓太
の心理を描写することだったのに、その事については一言も触れられていない。そこで最
後に一行、付け加えた。
「啓太は電話を切って、思った。『兄さん!』」
 どうだ、これで。もうどうなったっていい。
「あと五分です。あ、名前と、学部学科学年と、あと学籍番号を忘れずに。……まあ学籍
番号があれば、わかることはわかりますが、一応、……ね」
 教官が講義室の沈黙を破ると、そこかしこでひそひそ声が漏れ出し始めた。ふと、窓か
ら秋の斜陽の差し込んでいるのに気がついた。日向の暖かさを想った。
 提出する時間になったので、後ろから答案用紙が集められてくるのを待って、最も前に
居る私が、教官に手渡した。ひとつ後ろの、シャープペンシルを貸して呉れた青年の書い
た答をちらと読んだら、親は無理して帰ってこなくてもよいと言ったが云々、と書かれて
いた。そういう話だったかなあ。なんだか自分の記憶と、その記憶に基づく答に自信がな
くなってきた。やはりあんな答では、――駄目だろうか。きっと後ろの青年の書いたのが
普通なんだろうし、……まあよい。これも返そう。
「これ、有り難う」
 と言って青年にシャープペンシルを渡した。青年は、貸したときと同じように、無言で
それを受け取った。答案用紙を整理した教官は、授業を進めるべくノートを開いた。
「ええと、……今日は遅くなってすみません。あと三十分くらいしかありませんが、不取
敢先に進みたいと思います。ええと、前回は確か、啓太に実家から電話のかかってくると
ころまでやりましたね」
 それは話がおかしい。先刻のテストの範囲は、明らかにその次の場面である。電話がき
て、朝まで考えて、それから電車に、……という話だろう?
「それじゃ今日は、あまり時間がないんだけれど(お前のせいだ)、啓太が電車に飛び込
むところまでやります。ここは、彼の心理をどう読み取るかが問題で、文壇でもいろいろ
な見解が示されているのだけれど、……ところで毎回しつこいようだけど、読んで来たよ
ね。授業で読む時間は取らないので、……よろしく(時間がないんだろう?急げよ)。そ
れで、……何だっけ。あ、彼の心理についてなんですが、再考査の当日の朝に、ぎりぎり
まで彼は苦悩して、考査を受けずに落第するか、それとも冷たい人間だと言われたほうが
いいか、この二つを天秤にかけて、結局世間体を気にして、――つまり、人間としての点
数を上げようと、家に帰る道を選んだ、というのが一般的な見方。しかし、だ。しかし、
私はこの問題についてニヒリズムの見地から新解釈を試み、以って文壇に巨大津波を起こ
したわけであります!」
 教官は鼻息を荒げてこう言った。可也、興奮しているようだ。さて、ここから大演説が
始まるぞと思ったその時である。中央の列の最も前に座っている男性が、たまりかねたよ
うに言い放った。
「先生、そこは先週やりました」
 学生は皆ニヤニヤと笑っていた。
「やった?あれ、変だな。本当に?」
「だって今日のテストは、そこから出てましたよ」
「ええっ?」大げさに驚いて、問題を見た。
「あれ?おかしいなあ(お前が、な)。じゃあ僕はどうしてここをやっているんだろう
(誰に聞いているのか?)……よく分からないけれど、やったということなので、じゃあ
次に進みたいと、……思うんだけど、あと二十分しかないし、どうしようかな。進めても
半端になるな。けれど何にもしないわけにもいかないし、じゃあ今日は特別に、予定外の
講義として、人生について語ろうじゃないか」
「先生、今日の分はテストに出ますか?」と先刻の学生が言った。
「いや、出題しません。まあ興味のある人だけ聞いて下さい」
 真剣に聞いているのは十人くらいで、大半の学生は帰ったか、隣どうしで談笑していた。
話の内容は割合するが、彼は自身の半生について、実につまらなそうに語った。時々、学
生に質問した。そして最後にこう言った。
「君たちは、小学校に入学してからここに来るまでの間に、学校の先生とか、どこかの偉
い人とか、つまり人生の先配の話を色々と聞いて、その中の言葉を幾つか覚えていること
と思うが、しかしその意味はまだわかっていないことに気を付けてほしい。日本語として
の意味は解っただろうが、しかし、その人たちの伝えようとした経験は、それから五年経
ち、十年が経ってようやく、判るだろう」
 そこで丁度、終業の鐘が鳴った。
「ではまた来週」と言って、教官は帰り支度をして、すたすたと講義室を去った。
 私はしばらくぼんやりと座って、教官の言葉を研究していたが、気がつくと目の前に、
昨日の友人が立っていた。笑っていた。
「今日は来たのか」
「ああ。……それよりお前、今日テストだって教えて呉れてもいいじゃないか」
「いや、本当に来るとは思わなかった」
「来いと言ったのはお前だぜ」
「うん、済まない。でもお前、今日の問題なら、特に勉強しなくても。……」
「大丈夫だってか?確かに一通り読んだには読んだが。……」
「それもあるが、何より重要なのは、お前がニヒルだということだ」
「なんだよ、そりゃ」
「お前とあの教官、それと解木剣斗がそっくりだということさ」

                                      終

*原文儘