人間失格

太宰治の作品は数多くあるが、その中で最も有名と思われるのがこの作品である。代名詞といっても過言ではないだろう。だが実際のところ本作は、それまでの彼の作品と比べてかなりの異彩を放っている。彼が自身の‘本性’を描いた作品は、これが最初で最後ではないか?(この次の軽妙な作品の遺稿を残し、彼は入水した。)したがって、これから太宰治に挑戦しようとする文学青年は、まず他の諸作品を読んで‘予習’してから、本作に入るべきと思う。


読者の評価は完全に二分されるようだ。○か×か。この傾向は昔から変わらないらしい。そしてこれからも変わらないだろう。この作品を是とする人は、読み進めるうちにすっかりのめり込み、主人公である「大庭葉蔵」(「道化の華」の主人公とおなじ)と自らを重ね合わせ、感動するだろう。悲劇を見るように。だが否とする人は、主人公、そして作者の心理を理解できずに不快感を覚えるだろう。

どちらにしても、読者に強烈な印象を与える作品であることは間違いない。もしかすれば、人生観さえ変えてしまうかもしれない。――電車の中で読むような作品ではないということだ。まとまった時間に、一気に読んでしまうことをお勧めする。私の場合、成人式を終えて帰宅した直後に、机に向かって読んだ。


さて○か×か、どちらかの感想しかないということだが、最後のほうにある次の文章についてどう思うかによって、そのどちらであるかがよくわかると思う。

「『廃人』は、どうやらこれは、喜劇名詞のようです。眠ろうとして(カルモチンという薬を飲むつもりが)下剤を飲み、しかも、その下剤の名前は、ヘノモチン。」

これがどういう状況だったかは実際の作品を読んで頂くとして、ここで重要なのは「しかも」という接続詞である。ヘノモチンという薬の名前は、少し変わってはいるが、そんなに面白い名前ではない。それなのになぜ「しかも」なのか?それは、本当に「しかも」と思ったからである。――正確に言えば、思わせたかったのである。

葉蔵は、幼い頃から周囲の‘人間’を笑わせてきた。……人間が怒るということが、何か動物の本性を見るかの如く非常に恐ろしかったからだ。だから、笑わせておけばよいと考えた。この「しかも」という、一見不自然な接続詞は、人間の資格を剥奪されたこの段に至ってもなお‘人間’を笑わせようとする、悲しい、ニヒルなユーモア意識の表れである。――面白いでしょ?と、暗に言っているのである。もう笑えないが。

この作品に○を付ける人には、おそらくこの「しかも」が自然に感ぜられるだろうが、そうでない人はおそらく思うだろう。「なにが『しかも』だ」、と。これは、きっと人間性の違いなのだろう。そして永遠に、この作品の評価は○か×か、どちらかしかないのだろう。

19th March 2006