道化の華

太宰治の数多くの小説の中から最初にこれを選んだ理由は、「走れメロス」などの中期作品、「人間失格」などの後期作品よりも、まず真っ先に前期の作品を読んでいただきたく思ったからである。前期における彼は、考えられる限りの手法で自身の内面を表現しようと試み、多様な形式の作品を発表した。この「道化の華」は、そのなかでも傑作の部類に入る短編小説であり、彼の処女短編集「晩年」に収録されている。

この作品は、主人公「大庭葉蔵」の独白から始まる。が、前置きも無しにいきなり「友よ」とか「僕は」などと始めだすので、正直なところ誰がしゃべっているのか分からず困惑する。それが作者の言葉でないことは、その後の「大庭葉蔵はベッドのうえに坐って」とある行になって初めてわかる。で、これが大庭葉蔵の視点による小説であると判断して読み進めようとすると次の行。「夢より醒め、僕はこの数行を読みかえし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする」と作者、太宰治本人がひょっくり顔を出す。このあとも、物語の世界と太宰治の精神世界とが交互に描かれていく。

こんな構成の小説は、その頃は勿論、現代でさえも前衛的である。もっとも、作者があとから述べているのだが、初めはもっと単純な形式の、普通の小説だったらしい。それを(物理的にそうしたかどうかは知らぬが)わざと引き裂き、「註釈」を数多く差し挟めて現在の形式にしたという。

状況と、登場人物の心理についての説明が淡々と繰り返されていくような小説とは、読み方を異にしなければならない。一見すると二つの全く異なる世界の話を書いているように見えるが、そうではなく、実は作者の内的真実ひとつを描写しているのである。それを認識し、作品に隠された作者の含羞に気が付けば、この作品は俄然面白くなる。

註釈部分を除けば、――つまり最初に書いたという部分だけ読めば、特に変わったところのない普通の小説である。銀座のバーで出会った或る女性とともに江ノ島で投身自殺を図るが、その女性だけ死んで自分は生き延びたという作者自身の事件を主題にしている。

むしろ註釈部分にこそ、この作品の価値があると云ってもよいだろう。興味深いのは、当時の青年の心理について述べていることが、そのまま現代においても適用され得るということである。あまりに的確で鋭い指摘に、思わずにやりとしてしまうことがある。私個人にとっては、「ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらいのちがった意味をもっておのれの胸へはねかえって来るようでは、ペンをへし折って捨てなければならぬ」という個所が、最も強く印象に残っている。

なお作者は、「人間失格」においても、主人公に大庭葉蔵という姓名を与えている。

7th October 2005