三内丸山縄文遺跡の
ご紹介


 平成6年夏、全国に、これまでの縄文時代の定説を覆す大発見とセンセーショーナルに報じられた、三内丸山遺跡をご紹介します。

遺跡は青森市西部の小高い丘にあり、ずうと前から石器、土器類が出る所で有名でした。近くの小学生たちが、よく拾い集めに行っていたものです。青森県がサッカー場建設を予定し、工事が着工されていたのですが、直径80cm以上の栗の柱がでるに及んで、常識を覆す大規模な遺跡と認定され、保存が決定されたのでした。
弥生時代の代表的遺跡、吉野ケ里より2500年程も古いのにその集落の規模が倍以上ということで、出土品は、既に、段ボール4万箱に達したということです。この遺跡の発掘でサッカー場の移転問題が生じ、果てはワールドサッカー誘致失敗となったわけですが(遺跡のせいだけではないが)、5500年の歴史の重みのためには、いたしかたのないところでしょう。





写真は遺跡保存を決定ずけた栗の大木6本柱の発掘跡です。残存していた根元の直径が80センチメートルということですので、建てられたときには1メートルを超えていたものと思われます。柱の高さも地盤の圧縮状態など科学的データを基に推測された値で、状況から判断できない屋根の有無が論争の的になりました。



            


高床式の穀物貯蔵庫
画像をクリックすると発掘状況が見れます。






写真は平成9年1月のものです。雪に埋もれた粗末な、わらぶき竪穴住居を見て、よくこんなもので冬が越せたもんだと感心いたしました。きっと子どもの死亡率は高く、成人の平均寿命も極端に短かったのでしょうね。幼い子ども達の死の悲しみや、飢餓などの苦難を乗り越え、我々の(私?)ご先祖様たちは子孫を残し(繁殖力は強かった?)、種として(津軽人?)存続してきたのですね。
















それにしても事実は奇異なものですね。我々が小学生のころは、縄文時代は狩猟のため山野に居住し、稲作が伝来した弥生時代、水田の灌漑用水のため平野部に集落が移ったと教えられたものです。それが、いまでは縄文、弥生にかかわらず、生命維持に必ず必要な水を求め、川辺、河口に集落が形成されたと、そして、縄文時代の遺跡が山野にあるのは、気温上昇で南極の氷が溶解し、海面が上昇、海進が起こったためであると。 そんな理由であれば、縄文時代の青森は、今より、かなり温暖な気候だったのでしょうね。


         
 屋根があるとか無いとかで、学者の間で論争になり、とうとう屋根をつけずに建てた20m以上と推測されている6本の巨大木柱見張り用?(祭祀用)楼閣。この復元のため、はるばるロシアのチタ市から栗の大木が運ばれたのです。

             




6本柱と大型集会所:クリックすると640*480画面が見れます。
論争になった屋根の有無の3案のミニチュア模型









 写真の板状土偶はあごのとがった顔つきですが、女性ということで、胸にシンボルがついています。大きさは国内最大ということですが、なぜか必ず、首等、一部が折られて発見されるそうです。男女の想像図は遺骨から復元されたもので、目鼻たちがはっきりし、あごが角張った顔が特徴的です。誰かに似ていませんか。青森にはこんな顔の人がまだ多く見かけられます。(^ ^;;
 

             






         
 遺跡は、青森駅からタクシーだと15分程度で、高速道路を降りたところから、すぐ向かいです。ネブタ大賞(旧田村麻呂賞)に輝いたコマツ製作所のネブタ絵「縄文鼓動」があなたを迎えてくれるでしょう。是非、おいでください。





情報


三内丸山遺跡公式HP

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